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『さばくのをイエス様に任せて、平安を得る』

前略、パウロ愛兄(35)2017.1.10

『さばくのをイエス様に任せて、平安を得る』

ローマ人への手紙2:3

「そのようなことをしている人々をさばきながら、自分で同じことをしている人よ。あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか。」

前略、パウロ愛兄

私たちは、全員、他人には厳しく、自分には甘いものです。パウロ兄は、それをご存知でわざわざこのことを話題に出されるのですね。自分にも他人にも厳しい人がいますが、やはり裁いていることには違いありません。それは、自分の判断が正しいと思っているからなのでしょうね。そして、そのことは自分を苦しめることになります。自分の判断を義とすることは、自分が基準になるということで、それにブレがあってはいけません。だから苦しいのです。ところが、その判断基準を神に置いてしまえば、私たちはすごく楽になるはずです。神様の義が基準となりますので、神様の義、つまり聖書の義に照らし合わせればよいのです。そうすれば、他人には厳しく、自分には甘いというダブルスタンダード(二重基準)にならなくてよくなります。

イエス様は確かに救い主ではありますが、命の書を前にして、人を最終的にさばくお方です。ヨハネ兄もイエス様の言葉を書き記されています。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」(ヨハネ9:39)人をさばくのをイエス様にお任せすれば、どれだけ楽になれるでしょう。イエス様は「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」(マタイ11:28-30)とおっしゃいます。人を裁くことも大変疲れることです。人を常にさばく人には安らぎがありません。イエス様に任せれば、平安と安らぎが得られます。その裁くことからの解放は、心の余裕を生み、新たなる力がわいてきます。そして、その力と平安によって、その人の事を逆に祈る気持ちにさせられます。イエス様が「迫害する者のために祈れ、憎む者に親切にしなさい」とおっしゃるのは、このことです。裁くことをすべてイエス様にゆだねた人の平安こそが、迫害や憎悪する人のために祈れるのです、親切にできるのです。イエス様にすべてをお委ねし、イエス様の内にある限りない平安を求めましょう。

今夜の学びもありがとうございました。

草々