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『日々の悔い改めと新生なくして、神は御怒りを鎮めることはない』

前略、パウロ愛兄(37)2017.1.14

『日々の悔い改めと新生なくして、神は御怒りを鎮めることはない』

ローマ人への手紙2:5

「ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。」

前略、パウロ愛兄

兄のいう「御怒りの日」とは最後の審判の日のことですね。ヨハネ兄は黙示録の中で、次のように述べている、その日のことですね。「また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。海はその中にいる使者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。」(20:12-13)この最後の審判では、いのちの書に記載されている、それぞれの行ないに応じてさばかれるとあいます。悔い改めのない言動もことごとく記されていて、その報酬である、永遠の死を受けることになるのですね。

その都度、その都度の悔い改めによって、罪が贖われ、私たちは新生していくにもかかわらず、そのことを知りながら、悔い改めを拒否する人は、イエス様も救いようがないのでしょうね。私たちクリスチャンも、悔い改めを知りながら、悔い改めに導く聖霊を無視してしまえば、私たちも同じように裁かれるのです。私たちは自分が罪を犯さないようにと心がけることも大切ですが、それよりももっと大切なのは、いち早く悔い改めることなのです。そのためには、神の慈愛と内住の聖霊の働きが必要です。私たちは、率先して悔い改めることはできません、聖霊の導きによって、私たちはやっと悔い改めることができるのです。その聖霊の導きとは、聖霊およびイエス様の支配に他なりません。パウロ兄もコロサイ人への手紙で、「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。」(1:13-14)私たちは罪の支配からイエス・キリストの平安の支配へと移されたのです。それにもかかわらず、悔い改めをしなかったり、後回しにするようなことがあれば、平安の支配から洩れるかもかもしれません。ヨハネ兄の黙示を思い出してください。いのちの書に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれるのです。悔い改めをしないという行いも裁かれるのです。

これはあたかも、モーセ時代の過越の羊の血を門にぬるのと同じです(出エジプト12章)。イエス様の血によって裁きは過越されるのですが、そのためにも悔い改めが必要なのです。エジプトを脱出してからも、真の悔い改めをせず、新生することなく同じ罪を犯し続けたモーセの民のその世代は約束のカナンの地を踏み入れることはありませんでした。これと同じことが、現代のクリスチャンにも起こりうるのです。

必ず罪はイエス・キリストにあって悔い改めによって赦されるという確信をさせていただき、聖霊によって、日々些細な事でも、悔い改め、次の朝、新しい自分と出会い、新しい一歩をイエス様と共に踏み出させていただきましょう。御怒りを、その日まで自分のために積み上げることのないようにさせていただきましょう。

今夜の学びもありがとうございました。

草々