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『神様からの報いに期待する』

前略、パウロ愛兄(38)2017.1.17

『神様からの報いに期待する』

ローマ人への手紙2:6

「神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります。」

前略、パウロ愛兄

パウロ兄の言うとおりですね。行いは心からでたもので、悪い心からでた悪い行いに対する報いは死であり、善い心からでた聖い行いに対する報いは命です。しかし、私たちは、本当にちっぽけな報いにヤキモキし一喜一憂するものです。イエス様は、偽善者の祈りは民衆の関心・尊敬というちっぽけな報いを受けてしまっているとおっしゃいます。「祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。」(マタイ6:5)私たちが受けるべき報いは人からではなく神様からです。イエス様は続けて次のようにおっしゃいます。「あなたは、祈る時には自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」私たちは、神様からの報いを求めなければいけません。

兄の言う、「行いに従っての報い」とは、行いの大小ではありませんね。行いをさせる心が問題です。兄もガラテヤ人への手紙でおっしゃっておられます。「人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる。とうことを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。」(2:16)ここでも報いは神様から義と認められること、つまりは天の御国での永遠の命を得ることです。

当然、信仰を伴わない行いは虚しく、また行いを生まない信仰も空しいだけです。ヤコブ兄も信仰に裏打ちされた行いを強調しています。「信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。」(2:17)では、死の直前に信仰をもった人はどうでしょうか。全く行いをするチャンスがありません。では、その人の信仰は偽物ということになるのでしょうか。だれもこのことに賛成する人はいないでしょう。なぜなら、その人はすでに人生で最大の信仰に裏打ちされた行いを行なったからです。わたしは、その行いとは信仰告白だと信じています。パウロ兄もコリント第一の手紙でおっしゃっていますね。「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です。』と言うことはできません。」(12:3)また、ローマ書でも、「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよびがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」(10:9) イエス様を自らの主であると告白すること自体、一生で最大の信仰による行為なのです。そして、そのイエス様を自らの主であると告白する行為に対する報いは、神様からの救いであり永遠の命です。

クリスチャンは当然、人からの賞賛に目を止めるのではなく、神様からの報いを求めましょう。人から褒められるというのは、すでにその報いを受けたことになります。難しいことではありますが、神様からの報いに期待しましょう。

今夜の学びもありがとうございました。

草々