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『忍耐強く、善の方を向く心を求める』

前略、パウロ愛兄(39)2017.1.19

『忍耐強く、善の方を向く心を求める』

ローマ人への手紙2:7

「忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、」

前略、パウロ愛兄

兄の「忍耐をもって善を行ない」とは、「善を行なうには忍耐が必要」だと言われるのですね。善の行為は一過性のものではなく、継続性がなければいけないとおっしゃるのですね。例えば、「募金」もそれ自体尊いものですが、できるなら継続的に募金をする、サポートをすることが大事だということですね。「善きサマリア人」をするなら、「善きサマリア人」であり続けることです。しかし、これは至難の業です。兄も、ローマ書7章で、次のようにおっしゃっておられます。「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。」(18)「私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。」(19) パウロ兄でさえ、そうなのですあら、私などが善を行ないますとは簡単には言えません。忍耐をもってしても継続の難しさを痛感します。しかし、そんな私たちであったとしても、少なくとも善の方を向き続けるように神様に導いていただかなければいけません。その心を求めましょう。

栄光も誉れも不滅のものも、すべて神様のものです。ですから、パウロ兄は、実際は「神・主を求めなさい」とおっしゃっておられるのでしょうか。ルカ兄は、ペテロ兄が預言者ヨエルの言葉を引用されたことを記しています。「そのとき、主の名を呼び求める者は、みな救われるであろう」(口語訳:使徒2:21) 主を求める者は救われ、永遠の命を与えられるのです。私たちには、栄光も誉れも必要ありません。私たちが賞賛されたとすれば、それは私たちにそのチャンスをくださった神様に栄光も誉れも帰すべきなのです。栄光も誉れも自分のものにしてしまえば、そのようなちっぽけな報いで終わってしまい、本来受けるはずの永遠のいのちをいただきそこねません。わたしたちが受ける恵みは、究極的に、永遠のいのちです。

永遠のいのちをいただくべく、忍耐強く、善(神)の方を向き続け、善を行なえるように、その心を神様からいただけるよう願い求めましょう。

今夜の学びもありがとうございました。

草々