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『滅ぶか裁かれるか、それとも』

前略、パウロ愛兄(44)2017.1.26

『滅ぶか裁かれるか、それとも』

ローマ人への手紙2:12

「律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はすべて、律法によってさばかれます。」

前略、パウロ愛兄

兄は、律法ありなしにかかわらず、罪を犯せば、裁かれるか滅びるかだとおっしゃるのですね。つまり、裁かれず滅びないためには、罪を犯さなければ良いわけですが、パウロ兄は、「ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にある」、また詩篇14篇や53篇を応用して「義人はいない。ひとりもいない。」と言われます。(ローマ3:9-10) 全ての人に罪があるとすれば、いったい誰が救われると言うのでしょうか。

ルカ兄は、イエス様が、「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」(5:32)とおっしゃったと記録しています。また、パウロ兄も「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」(1テモテ1:15)と証しされています。イエス様は罪人、つまり全人類を悔い改めに導いて救うために来られたのです。

では、「悔い改め」とはどのようにするものなのでしょうか。まず悔い改める前に、自分が罪人、罪深い者、神から離れている者であるという自覚が必要です。この自覚がなければ、悔い改めることができません。そして、エゼキエル書では、「悔い改めて、あなたがたのすべてのそむきの罪を振り捨てよ。不義に引き込まれることがないようにせよ。」(18:30)と言われます。これは、悔い改めるということは、罪から遠ざかり、神を中心にした生活をすることです。本来、律法がこのことを導くはずでしたが、心を悔い改めるはずのものが、単に悪い行いを改めることへと、神の御心を異なった物にしてしまいました。悔い改めるとは心入れ替え、神様を中心とすることです。そして、ペテロ兄が説きます、「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマ(洗礼)を受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」(使徒2:38) イエス様のバプテスマは、平たく言えば、イエス様の僕であり、友であり、兄弟姉妹とさせていただくことです。イエス様を頭とする霊的な体・教会の一部とされることです。

罪人であることを認め、罪を告白し、イエス様に悔い改めに導かれ、イエス様の霊的な体の一部となり、滅びから救われた喜びを共に分かち合う者でありたいと願います。

今夜の学びもありがとうございました。

草々