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『御言を聞くことから始まる信仰は、行ないによって全うされる』

前略、パウロ愛兄(45)2017.1.29

『御言を聞くことから始まる信仰は、行ないによって全うされる』

ローマ人への手紙2:13

「それは、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行なう者が正しいと認められるからです。」

前略、パウロ愛兄

兄のこの言葉は、ヤコブ兄の言葉を連想させます。「みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」(1:22)「彼の信仰は彼の行いとともに働いたのであり、信仰は行いによって全うされ」る(2:22)とあります。また、マタイ兄は次のイエス様の言葉を記録しています。「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。」(7:24)「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。」(26)

たしかに、信仰は御言を聞くことから始まります。パウロ兄も「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(ローマ10:27)と述べている通りですが、聞いただけでで終わってしまっては、信仰は成長しません。継続して御言を聞くことと、その御言を実行することで、信仰が成長し、全うされるのです。

では、イエス様といっしょに十字架にかかった罪人はどうでしたでしょうか。二人のうち、一人は、「イエスに悪口を言い、『あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。』と言」い、もう一人は、「『おまえは神をも恐れないのか。、、、だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。、、、イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。』」と言いました。イエス様は彼に言われました、「『まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。』」(ルカ23:39-43) このことから分かりますように、真に「イエス様を救い主キリストである」と告白する人は、救われるのです。なぜなら、「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です。』と言うことはできない」からです。(1コリント12:3) それは、全く、イエス様の憐れみによるものです。あの十字架上の罪人は、行ないは何もしていないように見えますが、「告白」という行ないをしたとも考えられます。その意味でも、信仰の告白は大切なのです。病床洗礼の方も「告白」という行為以外ほとんど行ないができないまま、天に召されます。それ以外の人々は、神を愛し、隣人を愛するという行為が信仰を伴って求められるのです。これは、神様からの戒めであり、義務であり、本分なのです。ソロモンはこのように訴えます、「神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべて(本分)である。」(伝道者の書12:13)

み言葉を聞くだけではなく、それを実行するものとさせていただきましょう。

今夜の学びもありがとうございました。

草々