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『もしもあなたがユダヤ人で偽善者だとすれば』

前略、パウロ愛兄(50)2017.2.4

『もしもあなたがユダヤ人で偽善者だとすれば』

 

ローマ人への手紙2:17

「もし、あなたが自分をユダヤ人ととなえ、律法を持つことを安んじ、神を誇り、」

 

前略、パウロ愛兄

兄は、私たちがパーフェクトなユダヤ人、律法を頼りにし、神を誇りとする者であるならと仮定しているのですね。そして、もしそんなユダヤ人なら、(21節から)どうして自分を律しないのかと言うための伏線を敷いています。今夜のところは、この伏線の「ユダヤ人は律法を持つことを安んじ、神を誇りとしている」ことについて考えて見たいと思います。

 

この新約時代のユダヤ人は、とくに祭司や律法学者たちは、律法をたてに好き勝手なことを言っています。たとえば、ヨハネ兄がそのことを証しされているのですが、イエス様を糾弾するためにピラトとのやりとりで、はじめには、「そこでピラトは彼ら(ユダヤ人)に言った。『あなたがたがこの人を引き取り、自分たちの律法に従ってさばきなさい。』ユダヤ人たちは彼に言った。『私たちには、だれを死刑にすることも許されていません。』」(18:31)と律法を盾にして、自分たちの手でイエス様を死に追いやることを拒みました。しかし、次の19:7では、「ユダヤ人たちは彼(ピラト)に答えた。『私たちには律法があります。この人は自分を神の子としたのですから、律法によれば、死に当たります。』」と死罪があることを認め、事実、石打ちの刑でステパノは殉教しました。(使徒7章)律法を自分たちの都合よく解釈し変えてしまうのです。このように、祭司や律法学者は、律法に従順するのではなく、律法を自分たちの意見に従わせるようにしたのです。

 

また、ユダヤ人は「神を誇りとする」ことでも、一見そう見えても実は自分自身を誇っている、律法を学び守っているという自負が、神を誇ることをないがしろにしているのです。そういう人を偽善者と呼びます。イエス様は、幾たび、彼らを偽善者として糾弾したことでしょう。マタイ兄は、イエス様が祭司や律法学者を非難していたことを記しています。6章では、「人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者」(2)「人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈りをする偽善者」(5)「断食をしていることが人に見えるようにと、その顔をやつす偽善者」(16)などと、彼らを非難しています。神を誇るのではなく自分自身を誇り、自分に栄光があらわれているかのようにふるまうのです。

これが当時のユダヤ人たちですが、この二つ「神の戒めを守る」「神を誇りとする」こと自体は問題はありませんが、現代の私たちも、当時のユダヤ人たちが陥った誤りに陥りやすいものです。「神の戒めを守る」ふりをしているといいましょうか、心がその行いに伴っていない、マンネリ化していることがあります。また、神を誇りにしているようで、その実、自分を誇っているのです。自分が可愛いのです。パウロ兄は、そのことを当時のユダヤ人を通して、現代の私たちに訴えていてくださるのです。もう一度、私たちの信仰をチェックしていただきましょう。

今夜の学びもありがとうございました。

草々