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『信仰による義と神のみこころ』

前略、パウロ愛兄(50)2017.2.4

『信仰による義と神のみこころ』

ローマ人への手紙2:18

「みこころを知り、なすべきことが何であるかを律法に教えられてわきまえ、」

前略、パウロ愛兄

17節に続き、兄はパーフェクトなユダヤ人の理想を描いています。神のみこころを知り、律法に則したことに従い守る人物像を描いています。まるで、義人の中の義人のような人物像です。しかし、パウロ兄は、詩篇14篇3節にある「善を行なう者はいない。ひとりもいない」というフレーズから、「義人はいない。ひとりもいない」(ローマ3:10)というフレーズを導きだしています。ですから、兄の描くパーフェクトなユダヤ人はこの世に存在しないのです。なぜなら、「律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」(ローマ3:20)ハバクク書でも、「正しい人(義人)はその信仰によって生きる」(2:4)と言われ、パウロ兄もローマ書でもガラテヤ書でもそこを引用されていますね。ヘブル書の著者も引用されています。もとはと言えば、アブラムが主を信じ、その信じたことで彼の義が認められたのです。(創世記15:6) 律法の行いではなく、信仰によって、人は義と認められるのです。

今の私たちには、神の義がイエス・キリストの内に示されています。そして「イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての(イエスを)信じる人に与えられ、何の差別もありません。」(ローマ3:22)「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いゆえに、価無しに義と認められるのです。」(24) 信仰によって義と認められる瞬間です。いまや、律法があるかないか、律法を行うか否かという問題ではなく、イエス・キリストを救い主として信じるか信じないかが鍵となり、信じることによって神の義が私たちの内に下ることになり、義と認められるのですね。

そして、私たちは神のみこころをはっきりと知ることはできなくても、イエス様を通し、みこころを分からせてくださいと祈り願うことはできるのです。しかし、私たちは次のことは確信できるのです。ヨハネ兄は語ります。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(3:16)「神は愛です」(1ヨハネ4:8)

今夜の学びもありがとうございました。

草々