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『律法はキリストに導く養育係:律法を成就してこその救い』

前略、パウロ愛兄(51)2017.2.10

 

『律法はキリストに導く養育係:律法を成就してこその救い』

 

ローマ人への手紙2:19-20

「また、知識と真理の具体的な形として律法を持っているため、盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自任しているのなら、」

 

前略、パウロ愛兄

 

兄は、17節からずっと、律法を守る立派なユダヤ人像をあえて皮肉って描いていますね。兄は、律法が知識と真理の具体的な形であるとされています。確かに、律法は知識と真理の具体的な形であるはずでした。ですが、パウロ兄のおっしゃるとおり、「律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」(ローマ3:20) 律法と知れば知るほど、罪の意識が生じ、その人に平安がなくなり、救われるどころか、律法の行ないの泥沼に入り込んでしまうのです。

 

ヨハネ兄は、真理はイエス・キリストによって実現したと言われます。「律法はモーセによって与えられ、恵みとまこと(真理)はイエス・キリストによって実現した」(ヨハネ1:17)。 では、律法は結果的には「救い」に導けなかったのでしょうか。律法自体では「救い」に導けませんでしたが、律法には律法の役割がありました。パウロ兄は、次のようにガラテヤ書で言われていますね、「信仰が現れる以前には、私たちは律法の監督下に置かれ、閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした。こうしt、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためのです。」(3:23-24) ですから、律法はキリストの出現によって、その役目を終えたのです。イエス様はこのことを、「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです」(マタイ5:17)とおっしゃいます。

 

律法に従おうと努力すればするほど、罪の意識が生まれ、本来はここで、自力では義となることはできないのだと悟るべきでしたが、ユダヤの人々は、モーセの律法は正しく、それに沿って自分を律することで義となれるとかたくなになってしまったのです。ですから、イエス様を信じて義とされ救われるという福音が彼らには届きにくくなってしまいました。

 

イエス様はユダヤ人を盲人であると揶揄しています。「彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を手引きする盲人です。もし盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです。」(マタイ15:14) 私たちには、律法を行なうのではなく、イエス様の救いの福音を信じ切る信仰が求められています。

 

今夜の学びもありがとうございました。

 

草々