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『罪人のかしらゆえ』

前略、パウロ愛兄(52)2017.2.12

 

『罪人のかしらゆえ』

 

ローマ人への手紙2:21

「どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか。盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。」

 

前略、パウロ愛兄

 

「人を教えながら、自分自身を教えない」とは耳の痛いはなしです。教師は日ごろ、人の話を良く聞きなさいというのですが、セミナーなどにいっても、教師が教えられる立場になった時、人の話を聞いていないことも多いのです。雑談を自粛されている礼拝前の静まりの時でも、久しぶりにあう教師が話をしている場合もあります。まことに耳の痛いことです。教師も罪深い人間であります。しかし、兄は、その罪深さを悟り、自らを律しなさいとおっしゃるのですね。人に教える立場の方はなおさら、その罪を自覚しなければならないのでしょうね。パウロ兄は、ご自身を「罪人のかしら」と称されておられます(1テモテ1:15)。

 

人はよく、「私はときどきは罪をおかすが、罪人ではなく、まあまあいい人間の部類にはいるのでは」と心の中で思ったりしているものです。しかし、兄は、「罪人であり、罪人のかしら」であると自戒されます。これは兄が証して、「そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちをえようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです」と述べておられます(1テモテ1:16)。罪人のかしらでさえ、救われるのですから、平の罪人はなおさら救われるという理屈ですね。私は、兄がどんなことをしてでも福音を伝えるのだという覚悟をこの言葉に見ます。私も学ぶべき姿であると思いますが、凡人の私は、どこかで「良く見られたい」という気持ちが働いているように思います。ですから、なかなか心から「私は罪人のかしらです」とは言えません。私もパウロ兄のようになりたいと思うのに、なれない自分が歯がゆいです。それは、兄も経験されておられますね。「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことをおこなっているからです。」(ローマ7:15)「私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行っています。」(19)

 

しかし、兄は、そんなみじめな者であっても、イエス・キリスト様が救い出してくださることを強調されていらっしゃいます。私たちも、私たちの主イエス・キリスト様のゆえに、救われたことを、ただただ神に感謝する者とさせていただきましょう。一人一人のもっている隠されたプライドを明るみにし、そのプライドをイエス様によって取り除いていただくよう願い求めます。

 

今夜の学びもありがとうございました。

 

草々