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『自己中も傲慢も貪欲も偶像礼拝』

前略、パウロ愛兄(53)2017.2.20

 

『自己中も傲慢も貪欲も偶像礼拝』

 

ローマ人への手紙2:22

「姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。偶像を忌みきらいながら、自分は神殿の物をかすめるのですか。」

 

前略、パウロ愛兄

 

「姦淫」とは、「偶像礼拝」のことですね。エゼキエル書では、「あなたがたのうちののがれた者たちは、とりこになって行く国々で、わたしを思い出そう。それは、わたしから離れる彼らの姦淫の心と、偶像を慕う彼らの姦淫の目をわたしが打ち砕くからだ。彼らがじぶんたちのあらゆる忌みきらうべきことをしたその悪をみずからいとうようになるとき、彼らはわたしが主であること、また、わたしがゆえもなくこのわざわいを彼らに下すといったのではないことを知ろう。」(6:9-10)と言われるように、姦淫と偶像は密接につながっています。

 

また、兄の言う初めの「姦淫するな」は律法でいうところの「男女の姦淫」のことでもあり、また偶像礼拝のことでもありますが、次の「自分は姦淫する」というところの「姦淫」は、貪欲のことですね。兄もエペソ書で、「あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる(貪欲な)者――これが偶像礼拝者です。――こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。」(5:5)とおっしゃるように、姦淫は貪欲でもあります。ですから、兄も、次に「偶像を忌みきらいながら、自分は神殿の物をかすめるのですか。」と続けるのです。

 

私たちは、言葉通りの「偶像礼拝」はしていませんと言えるかもしれませんが、実はもっと根深い偶像礼拝をしているのです。例えば、自己中心は、神様を押しのけ自分が中心となり、自分が偶像化してしまうことです。ですから、その意味では傲慢も偶像礼拝ですし、さきほどの貪欲も偶像礼拝です。

 

兄は、そのことをあたかもパリサイ人や律法学者に言っているようで、実は私たちに警告しておられるのですね。私たちが常に神様・イエス様を心の中心におき、常に主を想うことで、そのことを忘れないようにしたいものです。

 

今夜の学びもありがとうございました。感謝いたします。

 

草々