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『偽善者』

前略、パウロ愛兄(54)2017.2.21

 

『偽善者』

 

ローマ人への手紙2:23

「律法を誇りとしているあなたが、どうして律法に違反して、神を侮るのですか。」

 

前略、パウロ愛兄

 

律法を誇りとしているのは、パリサイ人や律法学者たちですね。でもその人たちが、律法に違反して神を侮っていると言われると、彼らも腹が立ったことでしょうね。まして、もと彼らの仲間であり、律法に従順だった裏切り者のパウロ兄から言われたのですから、怒り心頭だったことでしょう。

 

もし、私がパウロ兄から偽善者呼ばわりされたら、怒りがこみ上げてくるかもしれません。もしくは、図星だから、落ち込んでいるかもしれません。伝道の書の執筆者は、「この地上には、善を行ない、罪を犯さない正しい人はひとりもいない」(7:20)と記します。善人がひとりもいないのですから、私は善人ぶる必要はないのです。ですから、人から善人と呼ばれたいとかそう見られたいとは、全く思ってはいないのですが、はやり面と向かって「偽善者」と呼ばれるとつらい。それよりは、悪人と呼ばれた方が、まだ素直にそうですと言えそうな気がします。パウロ兄は、ご自身のことを「罪人のかしら」と呼びましたね。私自身もそうでありたいとは思いませんが、そうだろうなと思います。

 

しかし、それでも感謝なのは、そんな罪人のかしらの私でさえ、イエス様は拾い上げてくださり、救いを与えてくださったということです。感謝してもしきれないぐらいの恵みです。それは、パウロ兄も同じことをおっしゃっておられますね。(1テモテ1:15-16)

 

現代の私たちが、律法学者やパリサイ人を悪者扱いするのは簡単です、そしてある意味卑怯です。なぜなら、彼らは約2000年前の人たちであり、私たちに対して、釈明の機会すら与えられていないのですから。私たちは、律法学者やパリサイ人を非難するのではなく、『本当にイエス様を心から受け入れているかどうか』『イエス様のしもべとして従っているかどうか』『自分たちこそが、律法学者やパリサイ人になっていないかどうか』をチェックするきっかけとしなければなりません。私たちは本来、醜いのです。しかし、そんな私たちをイエス様は愛してくださいました。イエス様はおっしゃいます。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マタイ9:13)私たちは、みな罪人であり、イエス様に招かれた者です。そのことを、私たちは決して忘れてはいけません。自力で善人になることも近づくこともできませんが、イエス様の身代わりの死によって、私たちの罪は赦され、その罪はキリストによって覆い隠されてしまうのです。しかし、それも全て心からの悔い改めが必要で、その悔い改めすらも自力ではできません。イエス様に導いていただかないと、本当の悔い改めにはならないのです。全てのプロセスは、全て神様の憐れみによるものです。私たちは、ただただイエス様にすがるしかないものなのです。

 

主よ、主を侮ることのないように、わたしをお導きください。いつも、誰に対しても物腰柔らかく、柔和で、神だけをあがめる者とさせてください。

 

今夜の学びもありがとうございました。感謝いたします。

 

草々