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『神の僕としての証し』

前略、パウロ愛兄(55)2017.2.23

 

『神の僕としての証し』

 

ローマ人への手紙2:24

「これは、『神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の中でけがされている。』と書いてあるとおりです。」

 

前略、パウロ愛兄

 

兄は、この『神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の中でけがされている。』という聖句をイザヤ書やエゼキエル書から引用されたのですね。イザヤ書では、「さあ、今、ここでわたしは何をしよう。――主の御告げ。――わたしの民はただで奪い取られ、彼らを支配する者たちはわめいている。――主の御告げ。――また、わたしの名は一日中絶えず侮られている。」(52:5)とあり、エゼキエル書では、「彼らは、その行く先の国々に行っても、わたしの聖なる名を汚した。人々は彼らについて、『この人々は主の民であるのに、主の国から出されたのだ。』と言ったのだ。」(36:20)とあります。イスラエルの不信仰のゆえに、異邦人たちは、イスラエルの神を軽んじ侮っている状況がありありと浮かびます。

 

これはまったく良い証しにならないことを、兄はおっしゃりたいのですね。現代においても、「あれでもクリスチャンか」「それでもクリスチャンか」と言われたり思われたりすりことがあります。当然、クリスチャンだからといって完璧ではありませんし、いえ、完璧には程遠いものですし、兄のおっしゃるように、「罪人のかしら」なのですから、そう言われても思われても仕方がないこともあります。しかし、裏を返せば、世間の人のクリスチャン像は、非常に高いことが分かります。私たちは、なにもその世間の高いクリスチャンイメージに合わせる必要はないかもしれませんが、彼らの期待をあからさまに裏切ることは、彼らの主を知るつまづきになるかも知れません。兄は、そのことも危惧しながら、「神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の中でけがされている。」と言われたのですね。

 

世間の人は、私たちの神様もイエス様も直接は知り得ません。私たちの信仰の姿を通してで、彼らもキリストに興味を持ち、出会うのです。そうであれば、なおさら私たちは信仰に励まなくてはなりません、いえ、主にあって喜び、主に従順であるべきなのです。私たちは、他の人に見られているからと言って虚栄をはることしてはいけません。それは、新約聖書時代のパリサイ人や律法学者のしたことです。マタイ兄は23章で、イエス様が指摘した、律法学者やパリサイ人の忌まわしさ、偽善家ぶりを列挙しています。私たちは、他人の目を気にせず、主から目をそらしてはいけません。海の上を恐怖なく歩いていたペテロ兄も目をイエス様から風と波に移してしまった瞬間、恐怖に襲われてしまいました(マタイ15章)。ペテロ兄でさえ、そうなのですから、私たちはなおさら注意し、イエス様にしがみつくぐらいでないと、信仰からはずれてしまうこともあるでしょう。

 

パウロ兄は、人のつまづきになってはいけないといわれます。「私たちは、この務め(福音を伝えること)がそしられないために、どんなことにも人につまずきをあたえないようにと、あらゆることにおいて、自分を神のしもべとして推薦しているのです。」(Ⅱコリント6:3)私も、兄のように神の僕としての、人生を歩みたいと思います。

 

パウロ兄、今夜の学びもありがとうございました。感謝いたします。

 

草々