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『真の割礼とは:神様に喜ばれる者』

前略、パウロ愛兄(56)2017.2.25

 

『真の割礼とは:神様に喜ばれる者』

 

ローマ人への手紙2:25

「もし律法を守るなら、割礼には価値があります。しかし、もしあなたが律法にそむいているなら、あなたの割礼は無割礼になったのです。」

 

前略、パウロ愛兄

 

割礼に関しては、創世記の17章にでてきます。神はアブラハムに告げました。「次のことが、わたしとあなたがた後のあなたの子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中のすべての男子は割礼を受けなさい。、、、それが、わたしとあなたがたの間の契約のしるしである。」(10-11)割礼は神様とイスラエルの民との契約のしるしです。その契約とは、「カナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わあしは、彼らの神となる。」(17:8)ということです。

 

また、律法もモーセとアロンに主が仰せられたものです。「過越のいけにえに関するおきて(律法)は次のとおりである。外国人(無割礼の者)はだれもこれを食べてはならない。(中略)イスラエルの全会衆はこれを行なわなければならない」(出エジプト12:43-47)このように律法はイスラエルの民に対するおきてです。無割礼の者はこのおきてから外れます。

 

パウロ兄は、神様との契約のしるしである割礼と律法はイスラエルの民に対するもので、ひとつのセットであると言われるのですね。ですから、律法を守らないものは、イスラエルの民でなく、無割礼の者と同じであり、肉体的な割礼は無効となると。

 

しかし、兄は、すぐ後に、「文字(律法)ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です」(29)と述べておられます。また、詩篇のダビデは、「たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを望まれません。神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(51:16-17)と詠っています。パウロ兄のいう「心の割礼」とは、神にへりくだる「砕かれた、悔いた心」のことなのですね。

 

律法を形式的に守っているだけであれば、本当の神様の心であり憐れみである真の律法を守ったことにならず、身体的な割礼に何の意味もなくなるということなのですね。私はイスラエル人からみると異邦人ですから、律法の外にいるものですから、なおさら、心の割礼が必要になってくるのですね。神を目の前にして遜る心を、私たちは御前に献げないといけません。

 

ヘブル書の執筆者は、「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」(11:6)と述べますし、パウロ兄は、「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。そえこそ、あなたがたの霊的な礼拝です」(ローマ12:1)と主張します。神に喜ばれる者とは、神様から与えられている信仰に堅く立ち、神に近づく者であり、神を求める者、そして、身も心も神様に生きた供え物としてささげる、霊的な礼拝をする人です。

 

私自身は力はありませんが、神様がそのように造りかえてくださいますから感謝です。

 

パウロ兄、今夜の学びもありがとうございました。感謝いたします。

 

草々