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『割礼より律法、律法より信仰』

前略、パウロ愛兄(57)2017.2.27

 

『割礼より律法、律法より信仰』

 

ローマ人への手紙2:26

「もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、割礼を受けていなくても、割礼を受けている者とみなされないでしょうか。」

 

前略、パウロ愛兄

 

兄は、「みなされる」と主張されるのですね。私も同感です。身体的な割礼あるなしに関わらず、律法の規定を守ることが第一義なのでしょう。しかし、どうでしょう。確かに律法の規定を守ることに越したことはありませんが、本当に、律法の規定を守り切れるのでしょうか。例えば、律法の2大戒め、「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」(マルコ12:30&31)を、守り切れる人はいらっしゃるのでしょうか。

 

ヤコブ兄は次のように述べます。「もし、ほんとうにあなたがたが、聖書に従って、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という最高の律法を守るなら、あなたがたの行ないはりっぱです。しかし、もし人をえこひいきするなら、あなたがたは罪を犯しており、律法によって違反者として責められます。律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。」(2:8-10) このように律法を全うすることは至難の業といいますか、到底無理なのです。

 

パウロ兄もそのことに触れられていますね。「人は律法の行いによって義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる。、、、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。」(ガラテヤ2:16)「律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。『義人は信仰によって生きる。』のだからです。」(3:11) 私たちは、「義」となることによって、罪から解放され自由の身とされるのですが、律法を遵守するだけでは「義」とならず、罪がますます暴かれ、「救い」が遠ざかります。私たちは、律法ルートで頂上である「義:救い」には到達できません。そのため、神様はもう一つ別ルートをご用意されました。それが、信仰ルート、別名イエス・コースです。私たちの罪を帳消しにするためのイエス様の十字架上での命による贖いによって、私たちがイエス様を信じる信仰を通して、「義」とされ、救われるのです。

 

律法が神様からの賜物であるのと同じように、信仰も神様からの賜物です。パウロ兄が、「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身からでたことではなく、神様からの賜物です。」(エペソ2:8)と言うとおりです。

 

神様からの賜物である律法を独力でミスなく完全に従うことは不可能です。違う言い方をすれば、神様はあえて、その従順不可能な律法を与え、「独力」をあきらめるように導かれたのです。そして、イエス・キリストを通しての信仰を、選ばれた人に与えられます。そして「足らない者」であることを自覚し、より一層キリスト・イエスに寄り頼み、支配されることで、日々新たにされ、イエス様に似る者とさせていただけるのです。このことをパウロ兄は、次のように述べていますね。「信仰が現われる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていましたが、そえは、やがて示される信仰が得られるためでした。こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。しかし、信仰が現われた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。」(ガラテヤ3:23-25)

 

私たちは、律法ではなく、神様から信仰という賜物が与えられ、信仰によって義とされる恩恵にあずかっているのです。主よ、キリスト・イエスの十字架の贖いを感謝いたします。

 

パウロ兄、今夜の学びもありがとうございました。感謝いたします。

 

草々