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『さばくはキリスト』

前略、パウロ愛兄(58)2017.2.28

 

『さばくはキリスト』

 

ローマ人への手紙2:27

「また、からだに割礼を受けていないで律法を守る者が、律法の文字と割礼がありながら律法にそむいているあなたを、さばくことにならないでしょうか。」

 

前略、パウロ愛兄

 

兄は、「律法を守る」ことができるという大前提に立って話を進めていらっしゃいます。しかし、律法を完全に守ることは不可能です。そのことはパウロ兄もよくご存じです。「だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。」(ローマ13:8)とおっしゃいますが、互いに愛し合うことがなかなかできないのも人間です。ヘブル書の著者も次のように言います。「律法には、後に来るすばらしいもの(キリスト)の影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。」(10:1) 律法を守っていても、人は完全にはなれないのです。

 

パウロ兄は、「無割礼ですが律法を守る人は、割礼済ですが、律法を守らない人をさばく」と言われますが、イエス様は「さばいてはならない」とおっしゃいます。「さばいてはいけません。さばかれないためです。」(ローマ2:1) パウロ兄ご自身も、「あなた(パリサイ派)は、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。」(ローマ2:1)とおっしゃいます。 では、だれがさばけるのでしょうか。

 

ヤコブ兄は、「律法を定め、さばきを行なう方は、ただひとりであり、その方は救うことも滅ぼすこともできます。」(4:12)と述べ、救うことも滅ぼすこともおできになる方はイエス・キリスト様です。

 

私たちは、キリスト様に人をさばく権威があり、キリスト様に裁かれる運命です。私たちには、人をさばくことはできません、また、さばく権威もさずかっていません。私たちは、自分自身を他人を裁くこともできません。ただ、主の裁きの前に立たされるだけなのです。

 

パウロ兄、今夜の学びもありがとうございました。感謝いたします。

 

草々