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『完全な者としてくださる主を誇る』

前略、パウロ愛兄(63)2017.3.9

 

『完全な者としてくださる主を誇る』

 

ローマ人への手紙3:3

「では、いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。」

 

前略、パウロ愛兄

 

兄、「神の真実」とはいったい何でしょうか。申命記には、「それゆえあなたは知らなければならない。あなたの神、主は神にましまし、真実の神にましまして、彼を愛し、その命令を守る者には、契約を守り、恵みを施して千代に及び、また彼を憎む者には、めいめいに報いて滅ぼされることを。主は自分を憎む者には猶予することなく、めいめいに報いられる。」(口語訳7:9-10)とあり、神の真実は、神が下された契約は必ず守られ、それぞれの行ないに対して報いられることです。義である主は、誠実・真実しかありません。

 

パウロ兄は、「その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか」という質問に対して、決してそうではないことを次の節で述べられています。神の誠実・真実、は、義であるがゆえに揺るぎません。不真実なのは、私たち人間です。しかし、私たちは神によって、神に霊的に似せて者として造られたもので、まして神御自身が霊の息を吹き込まれ生命を授かったものです。神の誠実性は私たちの内に宿っているはずです。その私たちに宿る誠実性は完璧なものではないかもしれません、いえ、完璧であるかもしれません。どちらにしろ、その一方で、私たちが神から離れ、神に背き、神と同等になろうとした原罪が私たちの肉的性質に組み込まれてしまっている限り、その内在する主の誠実性は、完全には現れないのです。しかし、「誠実になろう」とする傾向は、その内在する主の誠実性の働きであるとも言えるでしょう。

 

その誠実性を取り戻す、いや、内在する誠実性を引き出すのには、私たちは非力で不可能ですが、天から内に降された聖霊によって、その誠実性が完全にひきだされることが可能となりました。聖霊様ご自身が完璧なる誠実性を有し、私たちの内在する誠実性を引き出してくださるのです。そのことを、パウロ兄は、次のように記されていますね。「私たちがこの世の中で、特にあなたがたに対して聖さと神から来る誠実さとをもって、人間的な知恵によらず、神の恵みによって行動していることは、私たちの良心のあかしするところであって、これこそ私たちの誇りです。」(2コリント1:12)

 

兄は、ご自分を誇っているのではなく、神の恵み、つまり内なる聖霊様の働きによって引き出されている誠実さとそれゆえの行動を誇っているのですね。つまりは、平たく言えば主を誇っていることになるわけですが、特に内なる聖霊様の働きとその誠実さをほこっているのでしょうね。

 

パウロ兄、私は最近ときどきこう思うのです。アダムとエバの完全体(無病不老不死、誠実、アガペの愛などが含まれる)は、原罪によって犯されてしまいました。しかし、私たちの中にはその完全体が潜在的に不完全な不活性なものとしてあり、イエス様の血によって罪を覆い、義が始まる(という表現をあえてさせてください)ことによって、その潜在的な、完全体の残骸が、私たちが御言を聞きイエス様に御旨に従うことを通して、修復され、または活性化され、また足らないところを聖霊様に補っていただいて、イエス様に似るものと、倣うものとされるのかもしれないと感じるのです。まだまだ学びの途中ですから、間違っているかもしれませんが。ヤコブ兄は、次のように励まされています。「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためさえると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた完全な者となります。」(ヤコブ1:2-4)

 

完全な者として成長させていただくのも主であれば、その完全な者を目指す動機を与えてくださるのも主です。主を誇りましょう、大胆に、私たちを完全な者としてくださる主を誇りましょう。

 

パウロ兄、今夜の学びもありがとうございました。感謝いたします。

 

草々