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『律法の迷路からも救い出す贖い主』

前略、パウロ愛兄(64)2017.3.11

 

『律法の迷路からも救い出す贖い主』

 

ローマ人への手紙3:4

「絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは、『あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため。』と書いてあるとおりです。」

 

前略、パウロ愛兄

 

この4節は、3節の問の答えから始まっています。3節の問いは、『不真実によって、神の真実が無に帰することになるのか』というものでした。兄は、これを完全否定されました。私も全く同感です。神の義や誠実性は、被造物である私たちの影響を受けるものではありません。主は絶対神であり、ゆるぎません。

 

兄はその理由として、恐らく詩篇51篇4節の後半部分を引用されていますね。本来の4節は「私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。」となっています。私は、一読した時、兄の引用が理解できませんでしたが、詩篇51篇の4節を読みますと、恐らく兄は次のように言われるのですね。『神の義は絶対であり、私たちが罪を犯すときに、その義が際立つ(もっと良い言い方があるとは思いますが)、その義によって私たちの罪を裁かれるとき、神の義が基準となっていることが分かり、神の真実はより浮き彫りにされる』 

 

この兄の意図が理解できた時、私は律法に関する兄の記述を思い起しました。ローマ書3章20節では、「律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」と述べておられます。『律法は、正しさゆえに、律法によって罪が暴かれ、罪の意識が強制的に生じてしまい、義なる律法を守ろうとすればするほど、それに程遠い者であることが明らかにされ、救いに到るのではなく、迷路に入ってしまう』のだと思うのですが、あっていますでしょうか。

 

ですから、神が裁けば裁くほど、神の義・正しさが明らかにされるのでしょう。ですから、神は、私たちの罪を贖い帳消しにしてくださるとともに、迷路に苦しむ私たちを救い出すために、ひとり子であるイエス様を地上にお送りくださいました。パウロ兄は、そのことを「養育係」という言葉で表現されていますね。「信仰が現われる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込めていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした。こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義を認められるためなのです。」(ガラテヤ3:23-24) イエス様はそのことに関して別の表現を用いておられます。「わたしが来たのは律法や預言書を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためではなく、成就するために来たのです。」(マタイ5:17) イエス様の言われる「成就」とは、なにも律法に何かを付け足すとか変更するという意味ではありません。本来の律法の意図する「神の心→民を神の下に近づける→初めのエダム・エバの状態に戻す」ことを、イエス様の十字架の贖いの救いを通して、純粋なる神への信仰(例えばアブラハムの信仰)へと導くことによって、完成させることを、イエス様は「成就」とおっしゃったのです。そして、パウロ兄は、既存律法に目を向ける民の心を、イエス様への信仰による救いの完成へと導く養育係とされたのです。

 

神の義・真実を思うとき、イエス様の十字架の贖いと救いに感謝し、その信仰を確信させていただきましょう。

 

パウロ兄、今夜の学びもありがとうございました。感謝いたします。

 

草々