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『怒ること遅くても、不義に対して怒りを下す神』

前略、パウロ愛兄(65)2017.3.14

 

『怒ること遅くても、不義に対して怒りを下す神』

 

ローマ人への手紙3:5

「しかし、もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか。人間的な言い方をしますが、怒りを下す神は不正なのでしょうか。」

 

前略、パウロ愛兄

 

兄のこの言い方は、論理の展開として、1ステップ飛ばされているように思えるのですがいかがでしょうか。「もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、私たちがどんどん不義を犯すことで、神の義が明るみになります。神の義が明るみになれば、それは喜ばしいことであり、神がこのことで怒りを下すのは筋違いであり、それこそ、神は不正と言われる」という論理の展開があっても良いような気がします。では、私たちが不義を行なわなければ、神の義は明らかにされないということなのでしょうか。いいえ、そんなことはありません。神様は、自己完結された方であり、神の義は私たちの不義あるなしにかかわらず、存在するのです。

 

そして、パウロ兄は、神は怒りを下される方ですとおっしゃいます。私たちの不義に対する怒りであり、神は義なる方ですから、あらゆる不義に対して目をつむって知らん顔はできないのです。そして、その不義に対して、悲しみつつ怒られるのです。神は被造物の人間を嫌って、怒りを下される方ではなく、むしろ愛して下さるので、私たちの不義にたいして向けられる怒りは、私たちに対する憐れみに満ちた永遠の命へとつがなる導きでもあるのです。

 

イザヤを通して、神は次のように説かれます。「わたしは、わたしの名のために、怒りを遅らせ、わたしの栄誉のために、これを押えて、あなたを断ち滅ぼさなかった。見よ。わたしはあなたを練ったが、銀の場合とは違う。わたしは悩みの炉であなたを試みた。」(48:9-10)神の怒りは滅ぼす怒りではなく、試練の、練達のための怒りなのです。ですから、「わたしはあなたがたと契約を立てる。すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない。」(創世記9:11)と神はおっしゃいます。

 

モーセは主に対して、主がどんな方であるかを訴えています。「主は怒るのにおそく、恵み豊かである。咎とそむきを赦すが、罰すべき者は必ず罰して、父の咎を子に報い、三代、四代に及ぼす」(民数記14:18) 神様はノアの時にような、滅ぼし方はしませんが、罰すべき者は罰し、怒ることおそいが、愛するがゆえに怒ることもあるのです。私たちはこのことを忘れず、兄のように、「患難をも喜び」患難の先に忍耐・練達・希望があることに感謝しつつ、主の内にあって、歩ましていただきましょう。

 

パウロ兄、今夜の学びもありがとうございました。感謝いたします。

 

草々