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『神の義と愛』

前略、パウロ愛兄(67)2017.3.16

 

『神の義と愛』

 

ローマ人への手紙3:6

「でも、私の偽りによって、神の真理がますます明らかにされて神の栄光となるのであれば、なぜ私がなお罪人としてさばかれるのでしょうか。」

 

前略、パウロ愛兄

 

兄の論理展開は実に興味深いですね。罪によって神の真理が明らかになるのであれば、その罪は神の真理が明らかになる功績であり、その功績者がなぜ依然として罪人呼ばわりされないといけないのかという展開は、「罪によってしか神の義が明らかにならない」という大前提に立っているわけです。前にも申しましたが、この大前提は間違っていて、神の義を証明する必要はないのですが、パウロ兄はわざとこのように論述されるわけです。

 

この聖句でパウロ兄は、パウロ兄でさえも罪人であることを告白しています。そして、テモテへの手紙第一では、「私はその罪人のかしらです」(1:15)と述べています。これは、パウロ兄のへりくだった言い方でもありますが、その前の言葉を考えると、へりくだりというより救われる第一候補でありたいという願望も入っているのではないでしょうか。兄は、「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。」(1:15)とおっしゃいます。罪人が救われるのです。ですから、罪人のかしらはなおさら救われるのです。

 

だからと言って、罪を犯し続けて、わざわざ罪人のかしらになる必要はありません。パウロ兄の「罪人のかしら」とは、『自分は本当に罪多きものである』と懺悔しているに過ぎず、「私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。」(ローマ7:19)と告白しているのです。

 

では、ほんとうにどうしようもない罪人である私たちは、裁かれるのでしょうか。兄は、ローマ書8章で次のように断言されていますね。「今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」(1-2)アーメン! キリスト・イエスにある者、つまりイエス様を救い主として信じ受け入れた人は、その時点で、イエス様の十字架の血潮によって、罪を贖って(帳消しにしてくださって)いただいたのです。イエス・キリストを着て、罪が覆われ、神の目からは私たちの罪が見えなくされたのです。

 

神は、私たちの罪によって、神の真理、神の義を明らかにする必要はなく、むしろ、神の義ゆえに裁かざるええない私たちの罪を、救いたいという神の愛がイエス様を誕生させ、その罪なき聖いイエス様の血によって帳消しになさいました。そのことから、神は義でありながら、愛であることが自己完結的に証明されたのです。神の義と神の愛は矛盾することなく、神そのものであることが明らかにされたのです。私たちの罪とは無関係に、神は義であり愛であるのです。義であり愛である神の御名を讃えましょう。

 

パウロ兄、今夜の学びもありがとうございました。感謝いたします。

 

草々