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『善を現わすためには』

前略、パウロ愛兄(68)2017.3.17

 

『善を現わすためには』

 

ローマ人への手紙3:8

「『善を現わすために、悪をしようではないか。』と言ってはいけないのでしょうか。――私たちはこの点でそしられるのです。ある人たちは、それが私たちのことばだと言っていますが、――もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです。」

 

前略、パウロ愛兄

 

「私たちが悪をすればするほど、善が際立つ」という論理は、兄の言うように、真に滑稽です。悪人が少しでも良い事をすれば目立つので、多くの悪を行って少しの善をすればよいと考えるのは、悪人の論理です。悪を行うための詭弁です。

 

では、兄のいうところの「善を現わすため」には、何をすればよいのでしょうか。詩篇では何回も「善を行う者はない」と出て来ますが、これはどういうことでしょうか。私たちは善を行えないのでしょうか。答えとなるヒントは、同じく詩篇にあります。詩篇37篇4節には、「主に信頼して善を行なえ。地に住み、誠実を養え。」とあり、主に信頼しこその善であることが理解できます。また、5節では、「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」と、主に信頼し、主にすべてをゆだねれば、善は主が成し遂げてくださると言われるのです。私たちは、このことをきちんと理解すべきです。

 

エレミヤ書では、「実に、わたしの民は愚か者で、わたしを知らない。彼らは、ばかな子らで、彼らは悟りがない。彼らは悪事を働くのに賢くて、善をおこなうことを知らない。」(4:22)とあり、主を知らない者は善を行なうことをも知らないのです。つまり、善を行ないたければ、主を知らないとできないのです。

 

まとめますと、『主を知って、主に信頼し、主にすべてをゆだねることで、主が私たちの代わりに私たちを使って善を行ない成し遂げてくださる』のです。善は私たち人間の力では、とうてい無理でありできないことだということです。詩篇では、「善を行う者はない」と再三出て来ますが、「善を行え」とも出て来るのです。これを理解するには、先ほどの議論が役に立つでしょう。

 

善を現わすには、主を知ること、主に信頼すること、主にすべてをゆだねることをしないと成し遂げられないのです。なぜなら、主御自身が義であり善であるからです。主に立ち返り、主にあって誠実に善を行う者とさせていただきましょう。

 

パウロ兄、今夜の学びもありがとうございました。感謝いたします。

 

草々