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『すべての人が罪の下に』

前略、パウロ愛兄(69)2017.4.2

 

『すべての人が罪の下に』

 

ローマ人への手紙3:9
「では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。」

 

前略、パウロ愛兄

 

兄は、「すべての人が罪の下にある」と説かれます。事実、兄本人が「罪人のかしら」を自称されていますね(1テモテ1:15)。ですから、兄が人を非難して、罪人呼ばわりをしているのではなく、自らも含めて全員が罪人であると言われるわけです。

 

では、兄の言っている罪人と犯罪者とは同じでしょうか。「犯罪者」とは法律・刑法に違反した人のことで、人や社会を守るために人間が立てた法を犯した人のことですが、兄の「罪人」とは、神から離れ、神を敬わない、神に逆らう、神と対等になろうとする罪を背負った人のことです。それは、私たちの始祖アダムとエバが犯した罪(原罪)であり、その原罪は、拭われることなく、私たち子孫にDNAのように肉体に入り込み引き継がれているものです。ですから、「してはいけない」と思っていることを「してしまう」のも、この原罪から出てきたもので「肉的なもの」と表現されています。兄ですら、この肉的なものと苦闘されています(ローマ7:15-25)。「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。」(15)「私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。」(19)

 

そして、兄はこの苦闘から救われたい「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(24)と願い、その答えを主イエス・キリストに見たのです。「キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」(ローマ8:2)イエス・キリストの全人類の罪のための自らのいけにえ・犠牲の死(十字架上の死)によって、つまり、全人類の罪がイエスに入り、イエスの血によって、罪が贖われ、全人類の罪が帳消しとなりました。そして、死後三日目によみがえり(それを記念するのが復活祭・イースターですが)、死を克服して永遠のいのちを御父によって再び与えられたのです。それは、つまり、イエス・キリストを救い主と信じ受け入れることで、聖霊が私たちの内に宿り、私たちも永遠のいのちの保証を得られるのです。「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえるためです。」(エペソ1:18)と言われるとおりです。ですから、兄は、「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(1コリント1:18)と力強く言われるのですね。

 

「すべての人が罪の下にある」ということは、全ての人が救われ、永遠のいのちを得ることができるということです。主イエス・キリストを先に知った私たちには、私たちの主の福音を他の方々に伝え、共にあずかる者とされることが望まれています。兄が、「私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。」(1コリント9:23)と言われるとおりです。

 

隣り人のお一人から、主の福音を伝え、共に福音の恵みを受ける者とさせていただきましょう。イエス様はおっしゃいます、「わたしがこれらのことを話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)

 

パウロ兄、今夜の学びもありがとうございました。感謝いたします。

 

草々