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『義人とは』

前略、パウロ愛兄(70)2017.4.11

 

『義人とは』

 

ローマ人への手紙3:10

「それは、次のように書いてあるとおりです。『義人はいない。ひとりもいない。』」

 

前略、パウロ愛兄

 

兄の「義人はいない。ひとりもいない」という引用箇所は、恐らく、詩篇14篇3節bの「善を行なう者はいない。ひとりもいない」というところですね。詩篇51篇3節bにも同じ表現がでています。では「義人」とは、「善を行なう者」のことでよろしいのでしょうか。義人とはいのちの書に名前の載っている人です。(詩篇69:28) また、義人はその信仰によって生きる・生かされる人です。(ハバクク2:4、ヘブル10:38)) 

 

義を行なうのも、善を行なうのも、神様の御旨を行なうものであるとすると、私たちは誰一人、義人にはなれません。イエス様以外に神様の御旨を正確に行える人はいません。もしある人が神様の御旨を行なっているとしたら、それはただただ神様の憐れみでしかありません。その人が行なったのではなく、神様がその人を使って、神様の御旨を表したに過ぎないのです。そのぐらい、神様でない限り、神様の御旨を行なえないのです。

 

しかし、アブラハムのように、信仰によって義とされる「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(創世記15:6)とおりであり、へりくだって主を主と仰ぎ、主に従順する、屈服する、支配されることで、神様に義と認められるのです。神の御旨を行なう義の行為ではなく、信仰によって義とされるしかないのです。自らをむなしくし、神の支配を受け入れること、聖霊様に心を明け渡し、お住まい下さって、真の神の宮・神殿とされなければいけません。積極的な言い方をすれば、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」と言うことです。

 

もう少し違う表現をとるとすれば、「主にとどまる、主に接ぎ木され、主と同化する」ことです。イエス様は、「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります」(ヨハネ15:5)とおっしゃいます。また、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい」(9)「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」(12)とおっしゃるのです。神を愛することは、イエス様にとどまることであり、イエス様が愛されたように、お互いに愛し合うことなのです。当然、イエス様を救い主として信じ受け入れた信仰が先にあります。愛の行為は、その信仰の後から、その信仰の証として出て来るものです。

 

義人とは、イエス様を信じ受け入れ、主のことばによって清くされた人なのです。しかし、イエス様を受け入れた瞬間に義人が完成するというよりは、それは義の始まりであり、イエス様のお言葉つまり聖書の言葉に聞き従うことによって、義が完成へと進んでいくのだと理解します。

 

パウロ兄、今夜の学びもありがとうございました。感謝いたします。

 

草々