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『神を求める』

前略、パウロ愛兄(71)2017.4.14

 

『神を求める』

 

ローマ人への手紙3:11

「『悟りのある人はいない。神を求める人はいない。』」

 

前略、パウロ愛兄

 

兄は、引き続き詩篇14篇の1節にある「愚か者は心の中で、『神はいない。』といっている。」と2節の「神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。」を、また53篇1節の「愚か者は心の中で、『神はいない。』と言っている。」と3節の「神を尋ね求める、悟りのある者が、いるかどうかをご覧になった。」を引用されていますね。

 

この詩篇でも分かるように、「悟りのある人」とは「神を求める人」のことですね。そして、「神を求めない人、神はいないという人」は愚か者であるとしています。「神を求めない人」は、神に頼ることせず、自力でなんとかしよう、自分しか信用できない人のことです。そして神を信じないということは、「御救いに信頼しなかった」(詩篇78:22)人でもあります。

 

はたして、人間は神を求めずにいられるのでしょうか。人が重大な危機に陥った時には、自然と「神様」と言ってしまうか、心に唱えるかするのではないでしょうか。それは、教育がそのように人を造って行ったとされるかもしれませんが、神の創造物である人間には、創造主である神を思う気持ちが生まれながらに組み込まれているのだとも考えられないでしょうか。

 

申命記の著者は、「あなたがたは、あなたの神、主を慕い求め、主に会う。あなたが、心を尽くし、精神を尽くして切に求めるようになるからである。」(4:29)と述べ、主を求めれば、主に会うことができると主張します。また、ヨブは「わたしであるならば、神に求め、神に私のことをまかせる」と、神を信頼し、自力解決を放棄することが、すなわち主を求めることになると述べています。

 

実に、「神を求める」ということは、神を信頼し、全てをゆだね任せることなのです。そして、「神を知る」には、「神を畏れる」ことから始まります。(箴言2:5) 「神を畏れる」とは、神をむやみに怖がることではなく、神を創造神として敬い、創造物としての立場を理解することでもあります。「神を知る」ことは、究極的に「神は愛」であること悟ることでもあります。

 

詩篇の述べる通り、わたしたちは本当に神を求めているのでしょうか。日用の糧・必要な物を求める以前に、私たちは主を求める、つまり主を信頼し、全てをあずけることが大切です。それが、主を畏れることとなり、そして、主を知ることにもなるのです。どうか、心から、主を求めてください。主を心に受け入れてください。そのためにも、全人格において、すべてを主に信頼し、主にあずけゆだねてみましょう。

 

パウロ兄、今夜の学びもありがとうございました。感謝いたします。

 

草々