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『神を求める』

前略、パウロ愛兄(72)2017.4.18

 

『神を求める』

 

ローマ人への手紙3:12

「『すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。』」

 

前略、パウロ愛兄

 

この聖句も詩篇14篇の1節と3節にある「彼らはみな、離れて行き、だれもかれも腐り果てている。善を行なう者はいない。ひとりもいない。」と53篇1節と3節の「彼らはみな、そむき去り、だれもかれも腐り果てている。善を行なう者はいない。ひとりもいない。」からの自由な引用ですね。

 

兄は、詩篇の「だれもかれも腐り果てている」というきびしい表現を、少し和らげて「ともに無益な者となった」にされています。その前の「みな、離れて行き/みな、そむき去り」を「すべての人が迷い出て」と「自ら離れる・去る」のではなく「迷い出る」と、どちらかというと結果的にそうなったと言うような表現方法をとっています。

 

これは、兄が、まだ彼らを愛していて、彼らが今迷っているのは、見ても見ず、聞いても悟ることがないからだと、彼らを不憫に思っての表現なのですね。彼らに、立ち直ってほしい、いや立ち直れるはずだと期待してのことでもあるのでしょうか。

 

兄の言う「無益な者」とは、二つの解釈がなりたつのではないでしょうか。一つは①イエス様の十字架が無駄となる、彼らがイエス様を救い主として受け入れないでいる限り、聖霊様が宿ることもなく、また聖霊様が内から生きて働いてくださることができないのです。もう一つは②益を産まない者となることです。自分が救われることもなく、他の人をイエス様に導くこともできない人のことです。そして、この事から分かりますように、他の人をイエス様に導くには、自分がイエス様によって救われていないといけないからです。

 

そして、善とは神であり、そのことは3ヨハネの手紙11節に記されています。「愛する者よ。悪を見ならわないで、善を見習いなさい。善を行なう者は神から出た者であり、悪を行う者は神をみたことのない者です。」とありますように、神である善を見習いなさいと励ましています。ですから、神の御子であられるイエス様を信じないで、善を行なうことはできないのです。善が独立して存在するのではなく、善は神そのものでありますから、イエス様を信じない人は善をしたくてもできないのです。ですから、イエス様は、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」(ヨハネ20:27)とおっしゃったのです。

 

私たちは、イエス様を信じる者とさせていただき、有益な者として、善を少しでも行なえるよう、祈り求めていきましょう。

 

パウロ兄、今夜の学びもありがとうございました。感謝いたします。

 

草々