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『破壊と悲惨の逃れ道』

前略、パウロ愛兄(76)2017.5.24

 

『破壊と悲惨の逃れ道』

 

ローマ人への手紙3:16(新改訳)

「彼らの道には破壊と悲惨がある。」

 

前略、パウロ愛兄

 

兄は、引用ではありますが、神を求めない者の道には破壊と悲惨があると言われるのですね。「破壊」とは、自らの堕落が招いた崩壊もありますが、敵に隙を見せた侵略による破壊のことを考えておられるのですね。例えば、エジプトによる脅威、アッシリアによる脅威、バビロンによる脅威、そしてローマ軍による脅威。彼らは町を荒し、奴隷・捕らわれの身となった悲惨の苦渋をなめるのです。

 

しかし、ちょっと待ってください。ユダヤ人は神を求めていたはずです。そうではないですか。イエス様はおっしゃいます。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」(マタイ12:39)彼らは目に見えない神ではなく、目に見えるしるしを求めたのです。つまり、神をないがしろにしてしまったのです。

 

祭司たちや律法学者たちも、神を求めていました。しかし、神に対して直接求めることをせず、律法(社会規範)を重視し、その律法を守っていたら、大丈夫と思ってしまったのです。律法は規則でしかありません。その規則に裏打ちされているのは、本当は神の人類に対する愛のはず。その愛を分かろうとせず、神を知ろうとせず、表面的な規則だけを守ろうとして、それで神を知ったつもりとなったのですね。まるで、氷河の海に浮かんでいる30パーセントのところだけを見て、沈んだ70パーセントを見ていないと、流氷を分かったことにはなりません。

 

パウロ兄は、ユダヤ人だけでなく、異邦人の私たちも同じミスを犯していると忠告しているのですね。日本のことわざには、「木を見て森を見ず」というのがありますが、まったくその通りです。

 

しかし、私たちは神様を直接知ることは許されていません。私たちが許されているのは、神様のひとり子であるイエス様のお言葉や行動を通してのみです。私たちには、イエス様を知らずして、神様を知ることは不可能なのです。パウロ兄は、もっともっとイエス様に近づいて、またイエス様を信じて聖霊様にお住まいくださり、聖霊様が働きやすいように、素直な信仰に導いていただかないといけません。

 

パウロ兄が示されたように、救い主イエス・キリストを通してのみ、神の愛を知ることのできます。どうかそのことを忘れずに、破壊と悲惨に対する逃れの道を教えていただきましょう。

 

パウロ兄、今夜の学びもありがとうございます。感謝いたします。

 

草々