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メッセージ主題:『救い主の謙遜』

通年主日親子礼拝主題:『イエス・キリストの生涯』

2017年6月25日

礼拝前祈祷:9:30 「主をほめる、主を讃える、鎮まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: ワーシップソング “He Is Lord”

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 「主は豊かであったのに」

 

聖書拝読:ルカによる福音書2章1節~20節(新改訳聖書)

中心聖句:「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」(2:10-12)

 

メッセージ主題:『救い主の謙遜』

おはようございます、そしてお帰りなさい。

先週は、マリヤの夫ヨセフの従順を学びました。主にすべてをゆだねる信仰をヨセフに見させていただきました。今朝は、救い主であるイエス様のお誕生の状況から、主がご降誕された目的と主の謙遜を見させていただこうと思います。

 

お祈りします。(祈り)

 

皆さんもよくご存じのクリスマスは、イエス様のお生まれになったことをお祝いする記念日です。12月25日でありますが、それは実際のイエス様のお誕生日ではありません。お誕生を記念する記念日です。実のところ、イエス様のお誕生日は分かっておりません。今朝は、クリスマス・シーズンになるとよく語られる箇所です。今は初夏に近い梅雨の時期ではありますので、冬の雪景色の中でのクリスマスのイメージから切り離して、イエス様のお誕生、そのものを考えて見たいと思います。

 

まず、イエス様のお誕生を知ったのは、ヨセフとマリヤ、その回りにいたかも知れない親族(住民登録のために移動中であったはず)を除くと、羊飼いたちでありました。御使いによって、その知らせは届きました。今朝の中心聖句が、その御使いの言葉です。わたしは、イエス様の誕生が、御使いによって、まず羊飼いたちに知らされたことは、イエス様のご降誕の目的がそこにあると確信しています。

 

御使いたちの言葉に注目してください。「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました」と御使いが告げるのですが、告げた相手は羊飼いたちでした。羊飼いという職業は、あまり人から好まれる職業ではなかったようです。新聖書大辞典によれば、「牧畜者は新しい牧草地を求めて涼しい月明りの夜を遠隔の地に移動しなければならないこと、敵の不意の来襲に立ち向かわなければならないことなど相当の労苦」もあったようですし、また「乾燥した、暑気のきびしいパレスチナでは、家畜には規則的に水飼う必要があり、毎日これを井戸べに導いて水をあたえなければならない。そこでは水の利用をめぐって争いの起こることもあった。野獣、盗人などの来襲から群れを守らなければならなかった」ようです。

 

羊飼いという職業は、社会的な階層から言えば、低い位置でありました。御使いの言葉から分かりますように、その社会的地位の低い羊飼いのために、救い主イエス様がお生まれになったのです。事実、後になって、イエス様の一番弟子たちは、漁師のペテロとアンデレ兄弟、ヤコブとヨハネ兄弟ですし、仕事のできない病人たちをお癒しになり、ユダヤ人でありながら、ローマ軍の手先であって私腹を肥やすような嫌われ者である取税人たちとも交わりを持ちました。イエス様のお生まれになったのは、貧しい人、虐げられている人、苦しみや悲しみの中にある人たちのためなのです。

 

ここまで書くと、羊飼いという職業があまりにも悲惨な感じを受けますが、イスラエル民族はもともとは遊牧民であります。ですから、羊飼いというのはイスラエル民族の原点でもあるのです。それゆえに、御使いは「この民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来た」とまず初めに言ったのです。羊飼いは、確かに大変な労苦を伴う職業ですが、悪いことばかりではないようです。また新聖書大辞典を引用して申し訳ないのですが、彼らは「万事好都合の時には、十分に休息する時間をもち、雑談か睡眠かで時を過ごす、時には群れを見守りながら昼は樹陰にいこい、沈思黙想し、夜は星空を仰いでその広大な美しさに心を打たれる」こともあったようです。その良い例が、詩篇23篇です。クリスチャンの大好きな詩篇でもあります。今一度、朝ではありますが、夜の星空を仰いでいる気持ちになって、神の恩寵(恵み)を共に味わってみましょう。

(詩篇23篇)

「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それがわたしの慰めです。私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」

 

なんとも美しい賛歌ではないでしょうか。これはダビデが歌ったとされますが、当時の羊飼いの主への感謝の気持ちを上手に歌い上げているように思われます。皆さんも経験ございませんか。夜道で月や星があなたを追いかけてくるような錯覚におちいったことを。ダビデは「いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう」と詠っていますが、それは、まさに夜道をも移動していた羊飼いたちが経験した恵みなのです。詩篇23篇を語り出すときりがありませんので、このへんでとどめておきますが、いつか、この23篇をじっくりと味わってみたいと思います。

私が、ここで意味したかったのは、社会的底辺にいた羊飼いたちではありますが、イスラエル民族の原点でもあり、神の恩寵をじかに感じ、神に従う準備ができている人たち、逆に社会にあまり束縛されない、そして信仰における自由人だということです。イエス様は、そのような人を救いにこられたのです。

 

イエス様は、救い主として、私たちのために、この世にお下りくださいました。しかし、それは大祭司たちのように、きらびやかないでたちを連想させるものでも、貴族や王族の赤ちゃんに着せるような派手なものではありませんでした。普通の布にくるまれ、馬小屋ですから、家畜のえさ入れである、飼い葉おけに、恐らく藁を敷き詰めて、そこに寝かせたのです。どこの世界に家畜のえさ入れに、愛する赤ちゃんを寝かせるでしょうか。これはイエス様の謙遜を暗示しているのだと私は思っています。

 

パウロは、2コリント人への手紙で、次のように説きます。「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」(8:9) イエス様は、天で豊かであったにも関わらず、この世界で生まれた時から、貧しくなられたのです。それは、私たちの心の貧しさを知るためでもあり、私たちの苦悩や苦痛を共に味わうためでもあります。心も体も、全ての痛みをイエス様は御自身の中にいわば封印して、十字架にかかられ、全ての人の罪を御自身の聖なる血・命によって贖われたのです。そのことを飼い葉おけは暗示しているのです。ルカ書には、この「飼い葉おけ」という表記が三度もでてきます。それだけ、当時の人にとっても衝撃なことだったのです。

 

イエス様は、真に、私たちに従うべき模範をしめされておられるのです。私たちがイエス様に救われ、そしてイエス様に従おうとすれば、イエス様の謙遜を身につけなければいけないことを。しかし、自力で謙遜を身につけることはできません。その思いこそ傲慢です。イエス様への信仰が謙遜を生むのです。イエス様への服従が謙遜を育てるのです。しかし、それは、辛いことではありません。先ほど少し味わいました詩篇23篇のように、謙遜によってあのような賛歌が生まれ、イエス様への感謝と喜びが岩から水がわき出るように、あふれでてくるのです。私たちも主の恩寵を知る羊飼いのように、主に心から従い、主を喜ぶものとさせていただきましょう。

お祈りいたします。

愛する天のお父さま、今朝の導きと学びを感謝いたします。御使いが救い主イエス様のお誕生を知らせた羊飼いたちのように、私たちも主の恩寵を日ごろから味わう者とさせてください。また主に私たち自身を明け渡し、そのことによって、すべての社会的くびき、社会的足枷から自由とされ、主の謙遜を、信仰を通して学ばせていただけますように。

今朝の主からのメッセージを感謝いたします。主イエス・キリスト様の御名により、このお祈りをおささげ致します。アーメン。

賛美: 今月ワーシップソング・新聖歌332「主はまことのぶどうの木です」

「主の祈り」をもって、今朝の礼拝を終わります。(新聖歌p826)