前略、パウロ愛兄(77)2017.7.19
『唯一の平和の道』
ローマ人への手紙3:17(新改訳)
「また、彼らは平和の道を知らない。」
前略、パウロ愛兄
パウロ兄、平和とはいったい何でしょうか。レビ記には、「わたしはまたその地に平和を与える。あなたがたはだれにも悩まされずに寝る。わたしはまた悪い獣をその国から除く。剣があなたがたの国を通り過ぎることはない。」(26:6)にあるように、他の国からの侵略のことでしょうか。また、詩篇で述べられている、「私は、主であられる神の仰せを聞きたい。主は、御民と聖徒たちとに平和を告げ、彼らを再び愚かさには戻されない。」(85:8)のように、神様との平和なのでしょうか。私は、やはり、後者の神様との和解であり平和であるような気がするのです。イザヤ書には、「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は、『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」(9:6)と、イエス様のお誕生を預言する聖句があり、イエス様が神様との和解をとりなしてくださる平和の君なのです。
パウロ兄も、同じように思われていますね。「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」(ローマ5:1)と述べておられます。
兄の説く「平和の道」とは、ずばりイエス様のことですね。イエス様は大胆に、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、ただひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)とおっしゃっておられます。英語ではもっと明確に、”I am the way, and the truth, and the life.” となっています。これを正確に訳すと、「私は唯一の道であり、唯一の真理であり、そして、唯一の命である」となります。
日本人は、「山の頂上は一つでも登り口はたくさんある」という変な宗教観を持っている方も多く、だから何でも拝めばいい、生まれた時は神道で、結婚式はキリスト教で、死ぬ時は仏教などで、ありがたいものは何でも拝むのですが、聖書では、はっきりと「イエス様こそが唯一の道」であることが示されています。それこそ、道を知らないのと同じです。
私は良く思うのです、私も言ってしまいがちになることなのですが、「いつでもOK」では好機を逃し、「どこでもOK」では最高の地を逃し、「なんでもOK」では善き物を逃し、「だれでもOK」では最愛の人を逃すのです。ですから道も「どれでもOK」と考えてしまうと、迷うのです。そして、自分では意識しなくても、結局霊魂は迷い疲れて、その頂上にはたどり着けません。
私たちは、イエス様という永遠のいのちに通じる道を知っています。その道は細道かも知れませんが、イエス様から片時も目を離さず歩めば、その道が狭かろうが広かろうが気にならないのです。主を見つめることで、安全をいただいているのですから。
イエス様こそ、唯一の道であることを信じ、よそ見せずに主を見つめつつ歩ませていただきましょう。
パウロ兄、今夜の学びもありがとうございます。感謝いたします。
草々