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『神に対する恐れ』

前略、パウロ愛兄(78)2017.7.22

 

『神に対する恐れ』

 

ローマ人への手紙3:18(新改訳)

「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」

 

前略、パウロ愛兄

 

パウロ兄、神を知らぬ者には、神の恐れがないのは、当たり前のことではないでしょうか。しかし、この聖句での「彼ら」とは、不法を行う者、不義を行う者であり、正しい道は知っているにもかかわらず、なおも神を恐れない、神を侮っている人々のことですね。

 

しかし、これは私たちクリスチャンにも言えることではないでしょうか。もちろん、キリスト者が不法や不義を行うとはあまり考えにくいことですが、それでは、本当に私たちは真に神を恐れているでしょうか。お優しいイエス様のイメージが重なってしまって、信仰にあぐらをかくようなことはないでしょうか。

 

私たちは、相当、間違っているような気がするのです。イエス様は確かに救い主ではあられますが、裁き主でもあります。イザヤ書33章22節では、「まことに、主は私たちをさばく方、主は私たちの立法者、主は私たちの王、この方が私たちを救われる。」といわれる通り、救い主=さばき主でもあるのです。また、イエス様ご自身も、次のように述べておられます。「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである」(ヨハネ3:17)としている一方で、「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目に見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」(9:39) 神に従順するものは救うが、見せかけの従順であったり不従順な者は裁かれるのです。

 

実は、この見せかけの従順は、残念ながらクリスチャンの得意とするところかもしれません。毎日曜日、礼拝を守り、献金もし、しかし日曜日だけなのです。またもう少し熱心なひとは、祈祷会にも出ます。ですが、教会堂から一歩外に出ると、クリスチャンの服を脱いでしまう、そのようなことはないでしょうか。これでは、神を恐れていることにはなりません。見えない神を恐れる、すべてお見通しの神を恐れるとは、常に神様に心を寄せている人です、いつも神様の恵みに感謝している人です。神を恐れるとは神を恐怖することではありません。神を愛することです、心から慕うことです。

 

クリスチャンは全員、教会堂に神がいらっしゃる訳ではなく、キリスト者ひとりひとりの心の内に聖霊様がお住まい下さっていて、それが神殿であり神の宮であることは承知しているはずです。ですから、どうか日々の生活において、主を求め、主に寄り頼み、そして、心から主を愛するようにしてください。主日礼拝も大切です。皆さんで共に礼拝を献げ、自身を献げ、共に祈りあう、神を賛美しあう時間は大切です。しかし、それは一週間に一日、いえ半日です。その主日の大切な時間をもっともっと活かすには、日々の礼拝、ディボーションの時がとても重要になってくるのです。だれかれとではなく、一人で、主と交わり、主と対峙することが、信仰生活において、必要不可欠です。どうか、静まりの時を持ってください。どんな時でも、どんな所でも、主と会話できるよう、主に心を整えていただきましょう。祈りが神様との会話であることを知っているなら、いつでもどこでも祈りができるはずです。祈り姿勢をとることだけが祈りではありません。歩いていても、食事をとっているときでも、勉強しているときでも、お風呂に入っているときでも、友人がいれば会話するでしょう。それと同じことです。神様は、私たちが、心の神棚に神をまつって、困ったときだけ助けを求めに来るような、そんなことを私たちに望んでおられるのではありません。常に主を見上げ、主と心通わせ、主に寄り添い、主に従うことを求めておられるのです。主が私たちに合わせるのではなく、私たちが主に合わせなければいけません。それが、私たちにとって最も大切なことであり、幸せなことなのです。

 

パウロ兄、今夜の学びもありがとうございます。感謝いたします。

 

草々