前略、パウロ愛兄(79)2017.8.7
『すべての口がふさがれる前に』
ローマ人への手紙3:19(新改訳)
「さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対していわれていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに屈するためです。」
前略、パウロ愛兄
10節から18節で引用した詩篇やイザヤ書の言葉を、パウロ兄は「律法」という表現を用いておられます。そして、律法の下にある人々とは、決してユダヤ人だけではなく、結局、全世界の人々を対象にさえておられるのでしょう。ですから、「全世界が神のさばきに屈する」としておられるのですね。そして、「すべての口がふさがれ」とありますように、私たちには、不平不満、異議申し立てなどのチャンスもなく、神に裁かれると説いています。それは、兄が2コリント5章10節で、「私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」と言われるのに符合します。私たちは、今までに行ってきた行為によって裁かれるのです。
しかし、パウロ兄の「肉体にあってした行為」では、具体的な行為の積み重ねをおっしゃっておられる訳ではないですね。事実、兄のテトスへの手紙では、「神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。」(3:5)と証しされておられるように、神のあわれみによって私たちは救われるのであって、善き行いの積み重ねではないのです。
では、私たちはどのようにすれば、救われるのでしょうか。兄の11節にあります「神を求める人はいない」と18節にあります、「神に対する恐れがない」という言葉にヒントがあるような気がするのですが。「神を求める」とは「神を認める」ことでもあり、「神に対する恐れ」とは「神に対する愛」とも言えるのではないでしょうか。
兄は、このことを踏まえて、ローマ書のところで次にように語っておられます。「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(10:9-10)イエスを救い主と信じ告白することによって、救われるのです。そして、神の目からみた善き行為とは、イエス様に対する信仰を持ち続けること、イエス様を愛し続けることであり、それこそが肝要なのでしょう。
私たちは神が私たちの口をふさぐ前に、イエス様にたいする信仰を告白し、また告白し続けなけてはいけないのだと、いえ、喜びをもって告白したくなるように、私たちの心を主に寄せ続けることが、神から求められているのです。常に、イエス様への信仰を愛を告白できるものとさせていただきましょう。
パウロ兄、今夜の学びもありがとうございます。感謝いたします。
草々