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メッセージ主題:『ただ、主にだけ仕えよ』

通年主日親子礼拝主題:『イエス・キリストの生涯』

2017年8月13日

礼拝前祈祷:9:30 「主をほめる、主を讃える、鎮まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: ワーシップソング “I Love You Lord”

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌257「キリストは生きておられる」

 

聖書拝読:マタイによる福音書4章1節~11節(新改訳聖書)

中心聖句:「イエスは言われた。『引き下がれ、サタン。「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。」と書いてある。』」(4:10)

 

メッセージ主題:『ただ、主にだけ仕えよ』

 

おはようございます、そしてお帰りなさい。

先週は、「聖霊と火とバプテスマ」と題して、イエス様が30歳にして公生涯を歩み始められるときに、パプテスマのヨハネから洗礼をうけられましたが、その洗礼のことについて学びました。今朝は、洗礼を受けたイエス様が、悪魔の試みを受け、それに対するイエス様の姿勢を学びたいと思います。

 

まず、お祈りします。(祈り)

 

イエス様は、ヨハネから洗礼を受けられた後、悪魔の試みを受けるため、40日40夜断食し、空腹を覚え、つまり体力的にも衰えた状態を自ら作りました。神のひとり子であられるイエス様はどうして、悪魔の誘惑を受けなくてはいけなかったのでしょうか。それは、私たち人間が受ける誘惑であり、その誘惑に勝つための秘訣、模範を示されたのです。私たちは、心的に弱い者です、ですからイエス様は自らの体力を弱くし、悪魔の誘惑を受けやすくして、私たちと同じようなレベルまで落とされたのです。

 

悪魔の誘惑とイエス様の対応を順を追って見ていきましょう。悪魔は三つの試みをイエス様にしました。

 

  1. 「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい」(3)

悪魔は、石をパンに変えて、空腹を満たしてはどうかと誘惑するのです。この石とは、モーセが神様から頂いた二枚の石の板、つまり十戒、十の戒め、神様の言葉のことを悪魔は言っているのではないでしょうか。そして、片手に神様の御言葉である石と、もう片手に食料のパンをもって、「さあどっちにする? お腹が減っているのでは、パンの方がいいんじゃないか」と言っているのに、等しいのです。ですから、イエス様の応答は、「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」とおっしゃったのです。イエス様は、旧約聖書申命記8章3節にあることばを引用されました。少し長いですがお読みします。「それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナ(不思議な食べ物)を食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない。人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。」主の口からでるすべてのもの、つまり神様の言葉によって生きると言われています。先日、旧約聖書のエレミヤ記を読んでいますと、次のような箇所がありました。「私はあなた(神様)のみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって、楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ。私にはあなたの名がつけられているからです。」預言者エレミヤは、神様からの御言葉を食べる(口語訳では「むさぼり食べる」となっています)という表現を使って、神様の御言葉によって力を得、生きることを表しているのです。私たちもこのように、御言葉には力があることを信じ、御言葉によって霊的に生かされないといけない、ということをイエス様は示されているのです。

 

  1. 「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」(6)

悪魔は、イエス様が申命記の御言葉をもって応対したので、自らも神の御言葉をもって誘惑してきました。悪魔が使った御言葉は詩篇91篇にあります。お読みします。「まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守れられようにする。彼らは、その手で、あなたをささえ、あなたの足が、石に打ち当たることのないようにする。」(11-12)しかし、イエス様はこれに対しても御言葉で応酬します。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」イエス様の御言葉の引用は、「あなたがたがマサで試みたように、あなたがたの神、主を試みてはならない。あなたがたの神、主の命令、主が命じられたさとしとおきてを忠実に守らなければならない。」です。申命記6章16-17節です。ここでイエス様は神様の御言葉を自分の都合の良いように解釈して使ってはならないことを私たちに諭しています。私たちには、御言葉だから大丈夫と、御言葉を切り張りして、自分の都合に合わして使ってしまいがちです、あたかも神様が命じておられるかのように。しかし、これは前後の文脈から読み取らなければならないことであって、私も自分の思いが優先してしまうと間違った解釈をしたりしてしまい、後で先輩方から指摘をうけるはめになります。そのことをイエス様は警告しておられるのです。

 

  1. 「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」(9)

さて、ここで、御言葉の応酬に勝ち目がないと思った悪魔は、ついに本音をぶつけて来ます。「神ではなく私を拝め、そうすればすべての願いを叶える」と申し出ます。悪魔は実は、私たちが神様を礼拝することをやめ、自分を崇め、私たちを悪魔の支配下におきたいのです。イエス様は一貫して自分の言葉ではなく、御言葉を引用して応対します。「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。」これは、申命記6章からの引用です。少し長いですが、大切な所ですので、お聞きください。「あなたの神、主を恐れなければならない。主に仕えなければならない。御名によって誓わなければならない。ほかの神々、あなたがたの回りにいる国々の民の神に従ってはならない。あなたのうちにおられるあなたの神、主は、ねたむ神であるから、あなたの神、主の怒りがあなたに向かって燃え上がり、主があなたを地の面から根絶やしにされないようにしなさい。」(13-15)神様のもっとも嫌うのは、偶像礼拝、つまり神様以外を神としてあがめることです。神以外を心の中心に持ってくることです。日本の人間が造った神もそうですし、その偶像を拝むこともそうです。また、自分を中心に置く、つまり自分の力でなんでも解決しよう、解決できると自己実現しようとしてしまうことです。これも偶像礼拝だとも言えます。そして、その裁きは、霊的にも肉体的にも滅びをひき起こします。イエス様は私たちに、ただ神のみを信じあがめよとおっしゃっておられるのです。

 

イエス様の応酬の中で、一番最後の「ただ神のみを主とし仕えよ、信じあがめよ」というご命令が一番重要だと私は考えます。そして、すべてのイエス様の応酬が御言葉を用いたことも注目すべきです。私たちは、悪魔と戦うには、御言葉を用い、御言葉を食べ、イエス様に助けを求めなければ、悪魔の強さにはひとたまりもありません。しかし、御言葉を用いても、イエス様の名を呼んでも、イエス様に信頼していなければ、御言葉もイエス様の名も何の役にも立ちません。そのいい例が使徒の働きの19章13節~16節までに記されていますが、今日はそのことには触れません。また時間のある時にお読みください。要は、イエス様を信じていないと聖書の御言葉は何の価値も力にもならないということです。道徳の面から聖書を学ぶ人もいますが、それでは「なるほど」というだけに終わります。御言葉を、イエス様を信じて、自分の物にしていかないと、御言葉が生きる力だとは言えないのです。まさに、パウロが力説するように、「十字架(イエス)のことばは、滅びに至る(イエスを信じない)人々には愚かであっても、救いを受ける(イエスを信じる)私たちには、神の力です。」(1コリント1:18)

 

イエス様を信じていらっしゃらない方は、イエス様に「信じるようお助け下さい、お導き下さい」とお祈りしてみましょう。またイエス様を信じていらっしゃる方は、神の言葉は力であることをより実感し、御言葉を食べる、静まりの時をもって神様の言葉から黙想するように主に導いていただきましょう。

お祈りをいたします。

愛する天のお父さま、今日は、イエス様の悪魔の誘惑・試みに対する対応から、私たちのつまずきに対する処方をお教えくださり感謝いたします。イエス様を信じ、イエス様の言葉を食べ、イエス様に仕えることから始まることを学びました。どうか、私たちも御言葉は力であることをもう一度思い起させていただき、御言葉によって生きることをお導きくださいますようお願いいたします。イエス・キリスト様の御名により感謝してお祈りいたします。アーメン」 主よ、今朝のメッセージを感謝いたします。

賛美: 今月の歌・新聖歌316「御言葉なる」

今月のワーシップソング「I Love You Lord」

「主の祈り」をもって、今朝の礼拝を終わります。(新聖歌p826)