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メッセージ主題:『何もかも捨てて、イエスに従った』

通年主日親子礼拝主題:『イエス・キリストの生涯』

2017年8月20日

礼拝前祈祷:9:30 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 今月のワーシップソング “I Love You Lord”

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌203「ああイエス君 こよなき友よ」

 

聖書拝読:ルカによる福音書5章1節~11節(新改訳聖書)

中心聖句:「イエスはシモンにこう言われた。『こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。』 彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。」(5:10b-11)

 

メッセージ主題:『何もかも捨てて、イエスに従った』

 

おはようございます、そしてお帰りなさい。

先週は、『ただ、主にだけ仕えよ』と題して、イエス様が40日の断食の後、悪魔の試みを受けたときの、イエス様の毅然とした姿勢、そして、「ただ神のみを主とし仕えよ、信じあがめよ」というご命令を学びました。今朝は、イエス様のユニークな一番弟子たちのリクルートの仕方を見ながら、弟子たちがどうイエス様に反応したかを学びたいと思います。

 

まず、お祈りします。(祈り)

 

イエス様は、ゲネサレ湖(ガリラヤ湖のことです)の岸辺で群衆に神のことばを伝えていました。聖書の後ろにある地図を見てください。イエス様が暮らしておられたナザレの町から東へ行くとガリラヤ湖がありますね。ガリラヤ湖の西岸でイエス様は群衆にお話しされておられました。恐らくさまざまなお話しをなされたと思われますが、基本は、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」とバプテスマのヨハネが告げていた言葉と同じ言葉を用いて、教えられていたようです。(マタイ3:2&4:17) 少しマタイによる福音書を開いて、その言葉を確かめてみましょう。3章2節は、バプテスマのヨハネの言葉で、4章17節は、イエス様の言葉です。これは、イエス様がバプテスマのヨハネの真似をしたのではなく、聖書の真理だからです。「悔い改める」とは、ただ単に悪いことをしたから「ごめんなさい」ということではありません。「悔い改める」とは、神様の方を向いて生活することを決心することです。しかし、人間は弱いものですから、その決心が鈍ったり、忘れたりして、罪を犯してしまいます。ですから、その都度、悔い改めて神様の方を向き直さないといけません。ではその悔い改めは何回大丈夫なのかといいますと、無限に赦してくださるのです。だからと言って、罪を犯していいんだということにはなりませんので勘違いをしないようにしてください。また、「天の御国が近づいた」とは、天国が近寄って来た、天国にいく時期が来たということではないと私は思っています。いろいろな解釈の仕方があるようですが、天の御国とは、神様のお住まいになる所であり、神様ご自身でもあります。イエス様は神のひとり子であり救い主でありますから、「天の御国が近づいた」とは、「救い主がやってきた」というのと同じだと、私は理解しています。また、このお話は、いつか機会をみて、じっくりとお話しできればと思います。

 

お話しを戻して、群衆に語っておられたイエス様は、岸辺に二そうの小舟(長さ10メートルぐらいだそうです)があるのを見て、その内のシモン・ペテロの舟に乗り、少し離れた所まで漕いで行ってもらい、舟の中で座って再び群衆に話されました。そのようにした方が、声がよくとおるのだそうです。そして、話が終わると、漁師であるペテロにもう少し沖へいって、網を下ろして魚を獲りなさいと告げます。

 

ペテロは心の中で笑ったかもしれませんね。漁師であるペテロが夜通し働いても一匹も獲れなかったのですから、「なにをおっしゃっているのだ、この方は」と思ったかも知れませんが、ペテロもイエス様の噂は知っていましたし、舟の中で、横で先ほどの話を聞いていましたから、「でもおことばどおり、網をおろしてみましょう」と従いました。するとどうでしょう。網が破れそうなぐらい大漁となり、二そうでも沈みそうになるぐらいでした。

 

ここでは、ペテロは興味深い言葉をイエス様に発します。「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」それも、イエス様の足元にひれ伏して言うのです。なぜ、ペテロは自分の事を罪深いといったのでしょうか。それは、一晩中漁をしていて一匹も獲れなかっただけでも、漁師として苦しいのに、ど素人のイエス様が網をおろしてみなさいといとも簡単に言ったので、漁師としてのプライドも傷つきました。それで、網をおろして、一匹も獲れなければ、「ほらみたことか」と笑おうとも思ったかもしれません。ですから、先ほどのペテロの言葉「でもおことばどおり、網をおろしてみましょう」とは、口先だけで言った言葉であって、本心からではありませんでした。しかし、それが大漁も大漁。漁師のプライドもずたずたではありますが、そのプライド云々よりも、イエス様の、御言葉の力に圧倒され、自分のプライドという罪を告白せざるを得ませんでした。ペテロは、イエス様の足元にひれ伏して、「悔い改めた」のです。漁師というプライドを捨て、イエス様に神を見たのです。(残念ながらこの箇所はマンガ聖書物語には描かれていません)

 

イエス様は、そんなシモン・ペテロに言われます。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」 ほかの福音書では、「人間をとる漁師にしてあげよう」と言われたように記録されています。この時の「人間をとる」とは「人の魂を救う」ということ、つまり、イエス様の弟子になるということです。

 

長年漁師をしてきたというプライドを捨てたペテロと彼の仲間、ヤコブとヨハネ兄弟、それにほかの福音書では、ペテロの兄弟アンデレも加えられ、何もかも捨てて、つまり生活の糧である漁師の網も舟も捨てて、イエス様に従って行くのです。この四人がイエス様の初めの弟子であり、イエス様の任命された一二使徒の中に含まれます。特にペテロは弟子たちの中で、指導者的立場に置かれます。

 

今朝の聖書の箇所から、私たちが学ばなければならないことは、四点あります。①まず悔い改める、②プライドを捨てる、③すべてを捨てる覚悟をする、④イエス様に従う、ということです。

 

  1. 悔い改める

先ほど、初めのころにお話しした通りです。悔い改めがなくて、イエス様を本当に信じることはできないと私は確信しています。私たちは、全員、生まれながらに罪人です。罪を犯したくないのに罪を犯してしまう性質をもっています。そして、真の神を知りません。ですから、いくら善人と言われる人でも、神の方を向いていないのです。心を神の方に向けること、罪から離れて行くことを「悔い改め」というのです。ペテロのように、イエス様を信じることは「悔い改め」から始まるのです。自分は罪人であると、神様の前に罪を告白することが、「悔い改め」の行為なのです。

 

  1. プライドを捨てる

ペテロは、プロの漁師であるというプライドを捨てました。人間は、誰しも程度の差こそあれ、自分自身にプライドを持っています。そして、それはいい事だとされている時もあります。しかし、創造主である神様の目から見れば、自分自身に対するプライドは神様をあがめる時の邪魔でしかありません。神様を色眼鏡で見ることになってしまいます。自分にプライドがある分、自分本位に考え、神様を自分の都合の良いように解釈しがちです。自分の方が上に立ってしまうのです。被造物が創造主より上であるはずがありません。例えば、あなたが作った人形やロボットが、自分勝手に行動し、まして作ったあなたに対して上から目線で物を言ったとすればどうでしょう。私たちは、そのようなことを創造主である神様にしてしまっているのです、それもプライドがあるために。プライドを持つのであれば、神様に対してプライドを持てばいいのです。それをキリスト教では、「主に栄光を帰す」「主をほめたたえる」「主をあがめる」というような表現を使います。自分の成功・よくできたことは、自分のものではなく、主のもの、神様のものだとして、主に栄光を帰し、主をほめ、主をあがめるのです。それが、自分へのプライドを捨てることになります。

 

  1. すべてを捨てる覚悟をする

漁師ペテロは、生活の糧である、網と舟を捨てました。全てにおいて、神に依存したのです。現代社会のことで言えば、神様に生活保護を求めたことになるのでしょうか。いえ、決してそうではありません。ペテロは、欲も含めてすべてを捨てましたが、それは、単純に、イエス様についていきたいと願っただけなのです。彼は、恐ろしいぐらいの単純さで、言い換えれば、無鉄砲さで(これが信仰なのですが)、イエス様の「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです」という招きに従っただけなのです。イエス様の「こわがらなくてもよい」というお言葉は、恐れをなして、ひれ伏しているペテロに対して告げているものですが、それだけではありません。「これからの全てのことは、心配しなくていい。わたしについてきなさい」と温かく呼びかけておられるのです。

イエス様は、私たちにも同じことを告げられています。「これからの全てのことは、心配しなくていい。わたしについてきなさい」と、イエス様に本当についていくのなら、衣食住はもとより、すべてのことを面倒みてくださるお方なのです。だからといって、なまけものになってはいけません。神様は怠惰を嫌います。

私が、「すべてを捨てる覚悟をする」と書きましたのは、実際にすべてを捨てる必要のある時には、イエス様の導きがあります。ペテロには、「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです」というイエス様の導きがあり、そのようにしたのです。私たちは、イエス様に従う時、つまりイエス様を信じる時、この「すべてを捨てる覚悟」が出来ているかどうかも、後々、信仰生活において大きな違いを生むことになります。イエス様に従う時、できるだけすぐに捨てないといけないのは、欲です。たとえば、金銭欲、名誉欲、支配欲、色欲などです。この欲は罪を犯すもとでもあります。欲が信仰生活の邪魔をします。

 

  1. イエス様に従う

聖書を読み、御言葉を噛みしめ、イエス様から心の目を離さず、祈る、黙想することが、イエス様に従うことの基本です。信仰生活の基礎です。日曜日の教会での礼拝を守ることは尊いことですが、信仰生活の基礎ではありません。また、教会での奉仕もとても大切で尊いことですが、これも信仰生活の基礎ではありません。信仰生活の基礎は、イエス様と個人的に常時つながっていることです、常に会話していることです、イエス様にいつも寄り頼んでいることです、どんなことでもイエス様に相談してみることです。それが、イエス様に従うことです。礼拝は日曜日だけが礼拝ではありません、日々の生活の中で、イエス様を見上げること、イエス様に賛美をささげることが礼拝です。イエス様に従うことは、毎日、礼拝をささげることでもあります。そして、形式的な礼拝ではなく、心からの礼拝を個人的にもってください。導かれるままに聖書を読み、導かれるままに賛美し、導かれるままに祈りをささげる。イエス様はそれをお喜びになります。

 

今から、黙想の時をもちます。個人個人において、今朝お話ししました、この四つのことの中で、今何がお一人お一人の心の中で、主が迫って来られておられるか、問うてみてください。

悔い改めでしょうか。自分のプライドを捨て、主を誇りとすることでしょうか。すべてを捨てる覚悟、特に欲を捨てることでしょうか。イエス様に従い、日常的に礼拝を持つことでしょうか。今から三分間、黙想をし、主にゆだね、主に導いていただいてください。(3分間黙想)

 

お祈りをいたします。

愛する天のお父さま、今日は、ペテロがイエス様の弟子となる時の姿勢とイエス様のお言葉から四つのことを学ばせていただきました。どうか、今日の導きによって、またイエス様により近づくことができることを期待いたします。主よ、今朝のメッセージを感謝いたします。イエス・キリスト様の御名により感謝してお祈りいたします。アーメン。

 

賛美: 今月の歌・新聖歌316「御言葉なる」

今月のワーシップソング「I Love You Lord」

「主の祈り」をもって、今朝の礼拝を終わります。(新聖歌p826)