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『この世において、律法が到達点ではなく、キリストが到達点』

前略、パウロ愛兄(80)2017.8.28

 

『この世において、律法が到達点ではなく、キリストが到達点』

 

ローマ人への手紙3:20(新改訳)

「なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」

 

前略、パウロ愛兄

 

パウロ兄の言われる「律法」とは、モーセの十戒を代表とする神様からの戒めのことであって、後々、律法学者や祭司たちが勝手に付け加えた細則や人の言い伝えを含まないもののことですね。たとえば、二大律法である、「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」と「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」(マルコ12:30-31)ですが、この律法を自力で完璧に守ることは無理です。理由は簡単です。神様は存在はしますが、目に見えません。その目に見えない存在を完璧に愛すること自体、人間の能力を超えているのです。そして、目に見える隣人を愛することはできますが、自分を愛するようには愛せないのです。自分と隣人は同一人物ではないからです。この律法は主によって方向性を示されたのですが、これを目標点としたことから、間違いが生じました。律法は到達不可能なものであるにも関わらず、それを目標点にし、その目標点に到達しなければ救われないとしてしまったので、途中で脱落、つまり罪が余計に際立ってしまう結果となりました。ですから、兄のおっしゃる「律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです」となるわけです。

 

律法は到達点ではなく、方向性です。パウロ兄の言葉をお借りすれば、律法は「養育係」です。パウロ兄のガラテヤ書には、「律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。」(3:24)と記されています。罪人である私たちの救いの到達点は、キリストなのです。パウロ兄は養育係という言葉を使われましたが、私は律法は、ある意味、方向性だと思っています。

 

律法によって、神様と人を愛することを学ぶのですが、そのように人が向いたとしても、その律法を完成できるのはキリスト・神だけです。イエス様もそのようにおっしゃっておられます。「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」(マタイ5:17) ですから私たちがキリストに出会い、信じ受け入れることで罪が赦されることを知るのです。しかし、イエス様がおっしゃった、「律法を成就する」とは、私たちにおいて律法が成就する訳ではなく、イエス様の到来によって、「義を目的とする律法」のその目的が成就され、その恩恵を私たちが受けることになるのです。ですから、イエス様を信じ、罪が赦されるとしても、あの二大律法「神を愛し、人を愛する」ことが、この世の私たちがその戒めを全うすることができる訳ではないのです。できるはずがないのです。律法はこの世での到達点ではないからです。ずばり、天の御国での到達点だからです。

 

私たちは、イエス様を救い主として信じ受け入れ、内に聖霊様がお住まいくださったとしても、この世では律法は方向性でしかなく、イエス様に私たちのすべてをゆだねることによって、主が私たちを引き上げてくださり、天の御国において、律法に到達することができるのです。そして、その時点で律法はその目的を成就され、消滅するのです。天の御国において、私たちは律法を意識することなく、律法の意図するところを行なえる者とされるのですから。

 

パウロ兄、今夜の学びもありがとうございます。感謝いたします。

 

草々