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メッセージ主題:『種まきと収穫の主の働き手』

通年主日親子礼拝主題:『イエス・キリストの生涯』

2017年9月24日

礼拝前祈祷:9:30 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 今月のワーシップソング 「Jesus, Name Above All Names」

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌420「雨を降り注ぎ」

 

聖書拝読:マタイによる福音書9章36節~10章4節(新改訳聖書)(輪読)

中心聖句:「そのとき、弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。』」(9:37-38)

 

メッセージ主題:『種まきと収穫の主の働き手』

 

おはようございます、そしてお帰りなさい。

先週は、『律法を成就するイエス様に授けられた権威』と題して、安息日の意味とイエス様の権威と働きについて学びました。今朝は、イエス様が弟子の中から、さらに十二人を選ばれたことを通して、イエス様の意図を学びたいと思います。

 

まず、お祈りいたします。(祈り)

 

今朝の輪読のところには、イエス様が弟子の中から、十二人を選らばれた記述が載っています。ペテロを筆頭として、一番若いヨハネまで、また後に裏切り者となるイスカリオテ・ユダも含まれました。初期からの弟子であり、漁師や取税人といった比較的身分の低い人たちが選ばれています。また、聖書中で活躍が著しい人もいれば、ほとんど記録されていない弟子もいます。

 

私は、イエス様の主要な弟子(後の使徒)の選びからは、とても理に適っているのだと思うのです。全員がそれぞれ、親分肌のペテロのようであれば、弟子の働きはバラバラになっていたかもしれません。表舞台にたつ人もいれば、脇を固める人、教育係の人もいて、それぞれが支え合っていたのでしょう。それは、現在の教会の姿と重なるところがあります。

 

ところで、十二人の弟子たちに対するイエス様の主な御命令は、ただ一つ、福音宣教であります。かれらは、このところで一致し、主からの訓練を受けます。二人ずつペアとなって、イスラエル人の地域をめぐって行きます。その時の具体的な指示については、マタイ10章5節~42節までに記されています。少し見てみましょう。

 

まず初めに、主目的が伝えられています。①散り散りになったイスラエル12部族に、②「天の御国が近づいた」と宣べ伝えなさい、③病人を癒し、死人を生き返らせ(死んだも同然の魂を生き返らせることも含まれたと思います)、悪霊を追い出すことを通して。

 

次に伝道の旅での諸注意、④身軽な旅支度、⑤挨拶やもてなしの受け方、⑥冷遇や迫害を受けた時の対応、そして16節以降は、⑦その心構えです。この心構えに大半が費やされているのを見ますと、この伝道の旅の主目的は福音を伝えることではありますが、それ以上に、弟子訓練としての要素が多く含まれているように思われます。イエス様は、弟子たちを連れて、見本を示し、学びをさせることとともに、選んだ弟子たちに、悪霊を制する権威を授け、自分のもとを離れさせ(つまり、弟子を信頼して)伝道に出させ、神に全幅の信頼を寄せ、神に寄り頼むことを、実践を通して学ばせ、その弟子たちを「練られた」のです。現代の弟子訓練の基本の一つがここにあるのではないかと思われます。また、イエス様は次のようにおっしゃっておられるのかもしれません。「外に出て伝道する」という意味には、「福音を伝える」ということと、「弟子たちの実践的訓練」の両方があり、弟子訓練には、御言葉を中心とした学びと実践的学びとが必要です。それと、教会堂の中に人を集めるという伝道の仕方だけではなくて、実際に外に出て伝道(路傍伝道という狭い意味ではなく)することが大切であり、むしろ、外に出て行くことを奨励しますとおっしゃっておられるような気がするのです。イエス様の時代と現代とでは違うと思われるかも知れません。なるほど生活環境はずいぶんかわったような気もしますが、人間の根本は全くといっていいほど変わっていないような気がするのです。

 

では、イエス様はなぜ、福音という種を外に向かって蒔きなさいとおっしゃるのでしょうか。それは、今日の中心聖句のイエス様のお言葉、「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」に尽きるのではないでしょうか。私たちは、時折、種を蒔く前から、「ああ、こんな不毛なところに種を蒔いても育つわけがない」と思ってしまうことがあります。例えば、誰もアスファルトの道の上に種を蒔く人はいません。どうしてですか。種が芽を出したとしても、根がはらないからです。しかし、イエス様は違います。イエス様は、そのアスファルトの上に収穫を見ていらっしゃるのです。時を制するイエス様にとっては、今しか見えない私たちと違って、将来の収穫を、色づき重たく頭を下げている麦や稲を見ておられるのです、そのアスファルトの上にさえも。種を蒔く前から、すでに収穫を見て、つまり多くの収穫を確信していらっしゃるのです。

 

私はインターネットの画像で、アスファルトの道の脇にスイカがなっているのを見たことがあります。恐らくアスファルトの小さな亀裂部分に、砂や土や埃が入り、その亀裂の間に、風で飛ばされてきたか、何らかの理由でスイカの種が落ちたのです。そして、それが芽を出し、子どもの頭ぐらいのスイカが一つ出来ていました。神様は実に不思議なことをなさいます。アスファルトの上にスイカが実ったとしても、そのスイカは美味しくないかも知れません。しかし、その実ったスイカの種が他の場所で、大きな収穫を導くかも知れません。いえ、イエス様はそれをすでに見て、「収穫が多い」とおっしゃるのです。

 

種まきや収穫のことで、よく引用される御言葉があります。詩篇ですが、「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう」(126:5)とあります。この時に「涙」は「救いを知ってほしいという祈りの涙」だと思われます。ですから「祈りをもって、福音を伝える者は、喜びをもって主を信じ知った人を迎える」とも解釈できるでしょう。しかし、なにも種まきと収穫は同じ人である必要はありません。この時の人とは「人全体を示す」でしょう。例えば「農家の人」であったり、福音のことであれば「クリスチャン」とも解せます。

 

使徒パウロも同じような気持ちでエペソの教会の長老たちに別れを告げています。「ですから、目をさましていなさい。私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがたひとりひとりを訓戒し続けて来たことを、思い出してください。」(使徒20:31)パウロは種を蒔きました。一部の収穫も見たかもしれませんが、多くの収穫を見ることなしにエペソを後にしたのです。

 

私たちは、結果をすぐに求めやすい者です。そのように小学校から教育されていますし、社会もそうです。しかし、福音、神様の愛を伝えることにおいて、私たちは、性急なる結果を求めることをしてはいけないと思います。種を蒔いたり、水をやったり、収穫したりするお手伝いは私たちの役目でしょうが、陽を当てて育てて下さるのは神様です。ですから、忍耐を必要とすることも大いにあるでしょう。ですが、私たちが忘れてはいけないことは、イエス様が見られるように、収穫の多いこと期待し、また確信することだと思います。神様の時である収穫を期待しつつ、「ああ、アスファルトの上に種を蒔いてなんになる」と思わずに、「一粒の種でもいいから育ってほしい」と願いつつ、祈りをもって、神様の愛をお伝えする者に、外に出る者とさせていただきましょう。

 

今から、黙想の時をもちます。目を閉じて、気持ちを楽にしてください。声を出さずにイエス様に問いかけてみてください。今日の学びの感謝とともに、まず主をほめましょう、主に感謝しましょう、主の御名をたたえましょう。そして、すべてを主にお任せし、主の静寂の中に身をゆだねてみてください。これから三分間、黙想をし、すべてのことを、主に導いていただきましょう。また、今日の主からの学びを振り返って見てください。種まきのことについて、主にお伺いしてみてください。(3分間黙想)

 

お祈りをいたします。

愛する天のお父さま、今朝は、外に出て福音をお伝えすること、すでに多くの収穫を期待して種まきすることを学ばせていただきました。しかし、私たちには忍耐が必要です。すべてのことを祈りを持ってさせていただきますようにお導きください。このお祈りを御手にゆだね、主イエス・キリスト様の御名により、感謝と共におささげいたします。アーメン。

 

賛美: 今月の歌・新聖歌108「丘に立てる荒削りの」

今月のワーシップソング「Jesus, Name Above All Names」

「主の祈り」をもって、今朝の礼拝を終わります。(新聖歌p826)

 

Jesus, Name Above All Names

(Words & Music by Naida Hearn)

 

Jesus, name above all names,

Beautiful savior, glorious Lord

Emmanuel, God is with us,

Blessed redeemer, Living word.

 

Above: 真上に、優位に

Beautiful: 素晴らしい、美しい

Savior: 救い主

Glorious: 栄光なる、神々しい

Lord: 主、神

Emmanuel = Immanuel: 救世主

Blessed: 祝福された

Redeemer: あがない主

Living: 生きている