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メッセージ主題:『百倍の実を結ぶ良い土地』

通年主日親子礼拝主題:『イエス・キリストの生涯』

2017年10月1日

礼拝前祈祷:9:30 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 今月のワーシップソング 「Open Our Eyes」

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌143「いとも尊き」

 

聖書拝読:マルコによる福音書4章1節~20節(新改訳聖書)(輪読)

中心聖句:「良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。」(4:20)

 

メッセージ主題:『百倍の実を結ぶ良い土地』

 

おはようございます、そしてお帰りなさい。

先週は、『種まきと収穫の主の働き手』と題して、十二人の弟子たちが選ばれたことに、多い収穫があることを信じる信仰を見させていただきました。今朝は、先週に続き、種まきの話ですが、どのような土地が収穫が多いのかということを見させていただきたいと思います。

 

まず、お祈りいたします。(祈り)

 

今朝の輪読の箇所は、イエス様のたとえ話でもよく知られた話で、種を蒔く土地の話です。4節から8節までに、4か所に種が落ちました。①道端に、②岩地に、③いばらの地に、④良い土地に。そしてこの土地のたとえがなにを示しているのか、15節から20節に、イエス様自ら弟子たちに説き明かしをされています。少し見てみましょう。その前に、14節では、「種蒔く人は、みことばを蒔くのです」とありますように、「種=みことば」であることを念頭におきましょう。

 

  1. 「道端=サタンが芽を出す前に持ち去る人」

このパターンは一番多いのではないでしょうか。イエス・キリストの福音が耳に入らない人です。みことばを聞いても、右から左で、心にとどまりません。そういうことに無関心な人です。いえ、本当は関心はあるのですが、サタンが彼らの目や耳や心に蓋をし、種が入らないようにしているのです。皆さんも初めはそうだったのではないでしょうか。「宗教って怖い」とか、「何か暗いし、お堅いし」みないなことを思われていらっしゃったのではないでしょうか。世の中に、本当は種はいっぱい蒔かれているのですが、ほとんどの人が素通りしてしまうのです。イエス様の「道端」という譬えはよく言ったものだと、今更ながら思うのですが、今は少なくなりましたが、路傍伝道も、街道でのスピーカー車での訴えも、トラクト配りも、人通りの多い道端で、一人でもこの福音が耳に入りますように、トラクトを読んでいただけますようにと祈り願って、主のご奉仕をされるわけです。では、この生産効率の悪い「道端」の働きはやめてしまった方が良いのでしょうか。みなさんが良い証人ですね。トラクトやチラシをにぎりしめて、教会の門を始めてくぐった人も多いのではないでしょうか。先週、アスファルトの道路にスイカが実った話をさせていただきました。アスファルトの割れ目にスイカの種がなぜか入り込んで、どういうわけか育ち、奇跡的にも実ったのです。こういう奇跡的なことがあるので、この伝道方法は無駄ではありませんし、必要なことですが、奉仕される方々の忍耐が試されるのかも知れません。

 

  1. 「岩地=芽を出しても根がしっかりとはらないで枯れてしまう人」

ここでは、うっすらと土が岩の上にあるということですから、みことばを聞いて喜ぶのです。教会に初めて来られる方も、新鮮な教えを耳にし、他の方々から歓迎され、本人も喜んで、足しげく通うのです。しかし、しばらくすると、その感情も薄れ、また何らかのトラブルがあって、足を教会に向けなくなる人がでてきます。教会も生身の人間の集まりです、まして牧師は罪人の頭です。だれも聖人ではありませんから欠点もあり、そのことにつまづく方もいらっしゃるのではないでしょうか。教会内でのつまづきは結構あるとお聞きしますが、そうなると牧師の責任は重大です。この世の教会は、さまざまな人間(罪人)の集まりであって、それをそれぞれ個人個人の段階ごとの悔い改めによって、イエス・キリストの弟子にしていただく人々の集まりです。ですから、まだまだ聖人とは程遠い未完成な人間の集まりだということを、牧師はきちんと説明する必要がありますし、また当人の責任において理解しておくことも大切です。

また、あるクリスチャンの方で、特別伝道会大好き、聖会大好き、教会イベント大好きという方をお見かけしました。たしかに、教会の行事ごとは楽しく、主にあって喜びに満たされることも多いですから、その気持ちは分からなくもありません。しかし、この方は御自身でうすうす感じておられるのではないでしょうか、日々の信仰生活や主日礼拝では喜びを得られていないことを。この方の信仰は危機的状況にあると思われます、瀕死状態です。日々の主との交わりで喜びを感じられない人は、実につまづきに弱い人だと思うのです。一生懸命教会の奉仕をされていたとしても、日々のイエス様との交わりが喜びと平安で満たされなければ、奉仕をすればするほど満たされず、結局疲れきってしまって、主日礼拝を行っても、自己嫌悪に陥ってしまうことにもなりかねません。「主に赦される」ことの意味を見失ってしまわれるのです。

 

数年前に、山口県の秋吉台に遊びに行きました。あの土地は日本最大のカルスト台地で、石灰岩の土地です。石灰岩には植物は生えませんが、秋吉台は草原です。何故でしょう。パンフレットの説明には、長い年月を経て、岩と岩の間に砂や土が入り込み、その所に種が落ち、恐らく風と鳥が関係していますが、その種が芽を出し育ち、そして枯れて、土化していくのだそうです。そうして、どんどんと岩の間だけではなく、岩を土が覆うようになっていき、草原ができるのだそうです。このように、土の薄い岩地でも、種は何回か枯れることをしながら、長い年月をかけて育っていくことができるかもしれません。種を蒔く人は、気長に、あきらめずに、種を蒔き続ける必要があるのでしょう。

 

  1. 「いばらの地=この世に心を奪われ実を結ばない人」

これは、まったくもって、自我との戦いです。世間体、富への執着、プライドなどなど、すべては自我から出て来るものです。いばらや雑草は、麦や稲などと比べて、生命力ははるかに強く、抜いても抜いても出て来ます。それと同じように、自我もしつこく、心の中心に居座り続け、その座をイエス様に明け渡そうとはしません。信仰生活は、けっきょく、この自我との戦いであるといっても過言ではありません。そのために、主は試練を与えるのだと考えられます。

自我は、聖書では、祭司長やサドカイ人やパリサイ人や律法学者、また金持ちの若者、銀製神殿の職人などといった実在の人の行動の中に現われています。またイエス様の弟子たちにも現れています。彼らが、イエス・キリストやその弟子を迫害したり、仲間になることをあきらめたりするのですが、それが、自我なのです。私たちの自我が、イエス・キリストを十字架にかけ、キリストを信じることをあきらめさせたりするのです。祭司長や律法学者が他人であり、彼らの言動が他人事であると思ってはいけません。彼らは、私たちの自我なのです。例外はありません。誰一人、この自我から逃れられないのです、この世で死を迎えるまで。使徒パウロが、「私は罪人の頭です」と言ったのは、実にこの事なのです。イエス様が弟子たちにおっしゃった、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(マタイ16:24)の言葉の「自分を捨て、自分の十字架を負い」とは「自我を殺す」ことなのです。「自分を放棄し、イエス様を心の中心に招き入れ、イエス様を王として、主に服従する」ことなのです。

 

  1. 「良い土地=成長し実をたわわに結ぶ人」

もうこのことは、すでにお分かりだと思うのですが、よく手入れが行き届いた耕された土地です。作物が良く育つには、水と空気の循環が一番だとそうです。水はけがよく、土の中の空気が移動していることが大切だそうです。このことは、何を意味しているのでしょうか。肥沃な土地という言葉から「柔和な心」を導かれるかも知れませんが、「柔和な心」はイエス様との交わりで実る御霊の実の一つです。初めから備わったものではありません。ですから、先ほど申しました、「自分を放棄し、イエス様を心の中心に招き入れ、イエス様を王として、主に服従する」ことなのです。しかし、これは一朝一夕にはできません。いえ、一生かかっても満足にできないことなのです。ですが、このことをさせていただこうと、イエス様を100%信頼し、依り頼むことによって、心が砕かれ、告白という空気を入れ、悔い改めの涙という水を流し、私たちの心は「良い土」へと変わっていくのです。

どうか、今までにも増して、主を信頼し、主に人生のかじ取りをしていただき、皆さんの心を「より良い土」へと変えていただきましょう。そして、その良い土が三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶことを期待し、主に感謝と賛美をささげましょう。

 

今から、黙想の時をもちます。目を閉じて、気持ちを楽にしてください。声を出さずにイエス様に問いかけてみてください。今日の学びの感謝とともに、まず主をほめましょう、主に感謝しましょう、主の御名をたたえましょう。そして、短い時間ではありますが、すべてを主にお任せし、主の静寂の中に身をゆだねてみてください。賛美をすることも、祈ることも全てを主に任せて導きのままになさってください。(3分間黙想)

 

お祈りをいたします。

愛する天のお父さま、今朝は、種の落ちる土地のことを学ばせていただきました。私たちは、初めは道端、そして岩地、いばらの土地であったかも知れませんが、どうかその私たちの心が三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ「良き土」へと変わりますようにお導きください。これからも、私たちの心を砕いて下さい。告白と悔い改めに導いてください。このお祈りを御手にゆだね、主イエス・キリスト様の御名により、感謝と共におささげいたします。アーメン。

賛美: 今月の歌・新聖歌397「神の御子にますイエス」

今月のワーシップソング「Open Our Eyes」

「主の祈り」(新聖歌p826)

 

Open Our Eyes

(Words & Music by Bob Cull) Acts 26:18

Open our eyes Lord

We want to see Jesus

To reach out and touch Him

And say that we love Him

Open our ears Lord

And help us to listen

Open our eyes Lord

We want to see Jesus

 

Reach out: 手を伸ばして届く