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メッセージ主題:『イエス様の中の絶対的な平安と力と愛を確信する信仰』

通年主日親子礼拝主題:『イエス・キリストの生涯』

2017年10月15日

礼拝前祈祷:9:30 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 今月のワーシップソング 「Open Our Eyes」

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌248「人生の海の嵐に」

 

聖書拝読:マルコによる福音書4章35節~41節(新改訳聖書)(輪読)

 

中心聖句:「イエスは彼らに言われた。『どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」(40)

 

メッセージ主題:『イエス様の中の絶対的な平安と力と愛を確信する信仰』

 

おはようございます、そしてお帰りなさい。

先週は、『百倍の実を結ぶ良い土地』と題して、イエス様の御言葉の種と私たちの心の状態をたとえた土地の関係を見させていただきました。今朝は、イエス様がガリラヤ湖の向こう岸に渡ろうと弟子たちを連れて舟で沖にでたときの話であります。このところから、群衆から離れて沖に出た意味と嵐の中でのイエス様と弟子たちとの対照的な行動を考えたいと思います。

 

まず、お祈りいたします。(祈り)

 

イエス様は、ガリラヤ湖の対岸まで、舟で渡ろうとおっしゃって、群衆をあとにし、主に弟子たちといっしょに湖の沖へでます。イエス様はいつもいろいろな所で祈られておられたのだろうと思いますが、人里離れ、荒野や寂しい所で、静まりの時、祈りの時をお持ちでした(ルカ4:42、5:16、などなど)。このガリラヤ湖の沖もある意味静まりの場所だったのかも知れません。この時イエス様は群衆に囲まれておられましたので、イエス様にとっても弟子にとっても、いち早く、静まりの時を持てるのが、沖だったのかも知れません。イエス様が天の父との交わりの時である静まりの時を必要とされておられたのですから、弟子たちはなおさら、その静まりの時を持つ必要があったのでしょうが、当の弟子たちはそのことに気がついていませんでした。じきに信仰生活の上において嵐がくるときに備え、仮にイエス様がそばにいらっしゃったとしても、心に常に平安を求める静まりの時を持たなければ、その嵐に翻弄されてしまうことに気がついていませんでした。イエス様はこのことを弟子たちに教えるために、沖に出たのかもしれません。

 

事実、沖に出た一行には、突風がおそい、舟は波をかぶって、水が入り、このままでは沈んでしまうかも知れない状況が起こります。イエス様はその時、どうされておられたのでしょうか。弟子たちといっしょになって慌てふためいていたのでしょうか。波を怖がっていたのでしょうか。いいえ。イエス様は舟の後ろのほうで枕して眠っておられたとマルコは記しています。突風が吹き荒れる中、舟でそうそう眠れたものではありませんが、イエス様は眠られたのです。心を平安の中に置かれておられたのです。神様ご自身が平安そのものであり、御子であるイエス様もその性質をともなっておられ、嵐の中にでも平安が「在る」方なのです。

 

弟子たちは、「私たちはおぼれて死にそうです。助けて下さい」とイエス様を起こし、イエス様にしがみつきます。イエス様は、風をしかりつけ、湖に、「黙れ、静まれ」と命令します。はたして、風はやみ、大なぎとなりました。結果的に、イエス様は自然をコントロールする神の力を弟子たちに見せつけることになってしまいましたが、そのような力を見せつけることが目的ではありません。その後におっしゃった、「どうして、そんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」という言葉通り、弟子たちに信仰のことについて気づいてもらいたかったのです。

 

この40節の「信仰がない」は英語では no faith とされています。英語のfaithは信仰と訳されていますが、私の中では、どうも100%同じニュアンスではないのです。Faith という言葉を分かりやすいコウビルド英英辞典で調べますと、「神の能力や善などについて確信をもっていること」だそうです。ですから、イエス様の「信仰がないのは、どうしたことです」とおっしゃるのは、「天の父の子であるわたしが舟に共に乗っているのに、自然を制御できる神の力が、わたしに備わっているとは思わないのか、わたしのことでキリストの確信がないのか」といった風な意味なのではないでしょうか。私は、このイエス様の「信仰がないのは、そうしたことです」とおっしゃったこの信仰のことはとても大切なことであると思っています。

 

もう少し、今日の聖書の箇所から信仰のことについて学ばせていただきましょう。

  1. まず初めに、「イエス様の中に、絶対的な平安を確信する信仰」です。イエス様は嵐の中でも平然と眠られる方です。そんじょそこらの平安とは違います。神の絶対的な平安を有しておられるイエス様だからこそ安眠できるのです。この平安は、私たちの信仰生活、信仰の歩み、信仰的な役割の務めだけでなく、日常生活にとっても大変必要なものです。特に朝の静まりの時に、更新される平安が、その日のさまざまな処理において冷静な対応を可能にします。

  2. 次に、「イエス様の中に、自然をも制する絶対的な力を確信する信仰」です。イエス様が「静まれ」と嵐に命令すると、大なぎになるのです。これはイエス様がおっしゃる『山をも動かす信仰』(マタイ21:21-22)にも通じるところですが、私たちに恵みとして与えられる「信じて疑わない信仰」のことではなく、イエス様ご自身の力を確信し信頼する信仰です。私たちに力が宿る云々ではなく、自然をも制することのできる力をイエス様はお持ちであると確信する信仰です。それが確信できれば、私たちにその力はなくても、イエス様に信頼し依り頼めば、イエス様がその願いを成就してくださるのです。「そのような力を与えてください」と祈る必要はなく、ただただイエス様にお任せすればいいだけの話なのです。

  3. 最後に、「イエス様の中に、絶対的な愛を確信する信仰」です。突風で舟が沈みそうな時、イエス様はすぐそばにいらっしゃいましたが、眠っておられました。弟子たちが起こし、助けを求められたときに、イエス様は問題を解決して下さいました。イエス様は、イエス様を信じる者が困っているのを知らんふりはなさいません。ただ、「イエス様助けてください」と必死で助けを求めれば、イエス様は必ず救いの手を差しのべて下さるのです、私たちにとって、最善の時に最善の方法で。弟子たちの救助を求める言葉を見てください。「何とも思われないのですか」つまり「何とかしてください」と願ったのです。「嵐を静めてください」とは願いませんでした。「舟の水を掻き出してください」とも願いませんでした。方法は問いませんでした。ただ、「何とかしてください」のように願っただけです。イエス様は愛のお方で、助け主、救い主です。私たちが困窮している時に、見て見ぬふりはできません。「必ず助けてくださる」と確信する信仰をイエス様は私たちに求めておられるのです。

 

以上、三つの信仰を見せていただきましたが、いずれも、イエス様の内にあるものを確信し、その信仰をもって、イエス様に主導権を明け渡すことが求められています。私たちは、いままで、ある力やある物やある人やある状況を私たちに備えてくださいという祈りをよくしてきました。実は私もそのような祈りをしてきています。しかし、今日見させていただいた信仰に基づいて言うならば、それらすべての祈りは、伝道者の書でいうところの「空の空」であるかもしれません、もしもその三つの信仰に堅く立っていなければ。私たちは、ただただ、イエス様の中に、絶対的な平安と力と愛を確信するゆるがぬ信仰さえ、イエス様に築いていただければ、そしてイエス様に全てをゆだね、お任せすることさえできれば、私たちは主の道から外れることなく、つまずくことなく歩むことができるのではないでしょうか。

 

今から、黙想の時をもちます。目を閉じて、気持ちを楽にしてください。声を出さずにイエス様に問いかけてみてください。今日の学びの感謝とともに、まず主をほめましょう、主に感謝しましょう、主の御名をたたえましょう。そして、今日学びました三つの信仰に導いていただきましょう。主の全体的な平安と力と愛を確認する信仰に。短い時間ではありますが、すべてを主にお任せし、主の静寂の中に身をゆだねてみてください。賛美をすることも、祈ることも全てを主に任せて導きのままになさってください。(3分間黙想)

 

お祈りをいたします。

愛する天のお父さま、今朝は、イエス様の内にある絶対的な平安と力と愛を確信する信仰のことを学びました。まず、私たちの全ての求める祈りの上に、この信仰に堅く立つことができますようにしてください。これらのお祈りを御手にゆだね、主イエス・キリスト様の御名により、感謝と共におささげいたします。アーメン。

 

賛美: 今月の歌・新聖歌397「神の御子にますイエス」

今月のワーシップソング「Open Our Eyes」

「主の祈り」(新聖歌p826)




Open Our Eyes

(Words & Music by Bob Cull) Acts 26:18

Open our eyes Lord

We want to see Jesus

To reach out and touch Him

And say that we love Him

Open our ears Lord

And help us to listen

Open our eyes Lord

We want to see Jesus

 

Reach out: 手を伸ばして届く