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メッセージ主題:『自分のための祈りと同じぐらい必死でとりなしの祈りを』

通年主日親子礼拝主題:『イエス・キリストの生涯』

2017年10月22日

礼拝前祈祷:9:30 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 今月のワーシップソング 「Open Our Eyes」

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌198「God Bless You」

 

聖書拝読:マルコによる福音書5章21節~42節(新改訳聖書)(輪読)

 

中心聖句:「恐れないで、ただ信じていなさい。」(36b)

 

メッセージ主題:『自分のための祈りと同じぐらい必死でとりなしの祈りを』

 

おはようございます、そしてお帰りなさい。

先週は、『イエス様の中の絶対的な平安と力と愛を確信する信仰』と題して、イエス様がガリラヤ湖の向こう岸に渡ろうと弟子たちを連れて舟で沖にでたときに、突風のあい、その中でのイエス様と弟子たちとの対照的な行動において、三つの信仰、「イエス様の中に、絶対的な平安を確信する信仰」「イエス様の中に、自然をも制する絶対的な力を確信する信仰」「イエス様の中に、絶対的な愛を確信する信仰」を見させていただきました。今朝は、会堂管理者ヤイロの娘の生き返った話と長血を患った女性が癒された話とを考えたいと思います。

 

まず、お祈りいたします。(祈り)

 

会堂管理者ヤイロの娘の話の途中に長血を患った女性の話が差し込まれるような形で、一つのテーマ「ただ信じなさい」を形成しています。共観福音書である、マタイ(9章)・マルコ(5章)・ルカ(8章)に全く同じ形式で記録されています。それぞれの記録者たちは、この出来事を信仰上重要視していることがよく分かりますし、また神様もこれらの記述をよしとしていらっしゃいます。

 

まず、ヤイロの出来事を簡単に復習してみましょう。

(1)ヤイロがイエスの足下に平伏す。(2)12歳の娘が瀕死なので、御手をおいて助けを懇願する。[マタイ:今死んだ娘を生き返らすように懇願](3)道中に長血の女性の出来事が差し込まれる。(4)道中、娘が死んだとの知らせが入る。[マタイには無し](5)「恐れないで、ただ信じなさい」とイエスの言葉。[マタイには無し](6)ペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れてヤイロ宅へ。[マタイ:群衆を出す](7)「死んだのではない、眠っているのです」のイエスの言葉を周りは笑う。(8)イエスが娘の手を取って「起きなさい」といい、生き返らせる。[マタイ:単に「起き上がった」と表現]。

次に、長血を患った女性の出来事を見てみましょう。

(1)その女性の12年間の闘病生活の悲惨さの描写。[マタイには無し](2)イエスの着物のふさにさわり、病がすぐに癒される。(3)イエスは力が出て行くのを感じる。(4)女性は恐れ、ひれ伏し、告白する。[マタイには無し](5)「あなたの信仰が直した」とイエスは告げる。

 

ヤイロの娘の場合は、死から生き返らせ、長血の女性の場合は、病の全くの癒しであります。この二つの出来事の共通点は、イエス様なら生き返らせる・直せることができるという、他に選択肢のない、後のない、死に物狂いのような必死な信仰です。

 

ヤイロは、娘が死にかけている、もう医者も匙を投げてしまった状態でしょう。最後の希望は、イエス様で、会堂での説教の内容や外でのいろいろな奇跡の評判高いイエス様にすがるしかなかったのでしょう。イエス様に平伏して頼みました。娘が死んだと知ったときには、ヤイロは希望は断たれたと思い、落胆しました。しかし、イエス様は、「恐れないで、ただ信じていなさい」とおっしゃいました。「信じ続けなさい」とおっしゃったのです。このイエス様のお言葉に、ヤイロは「もしかしたら」と消えかかっていた希望のともしびを再び燃やしたに違いありません。イエス様の「恐れないで」とは「不安にならないで、疑心暗鬼にならないで」とも解釈できるでしょう。「ただ信じていなさい」という言葉に、ヤイロは素直に従ったのです。はたして、奇跡は起きました。娘は生き返り、起き上がったのです。このことは、死に至る病も全く癒されたことを意味しています。ただ単に生き返っただけで、目を開けただけであれば、死に至らせた病は治っていないかもしれません。それであれば、結局は生き返っても、「活き活きと生きている」状態ではありません。私たちは、病床にある人が、危篤状態になった時に、「生き返ってほしい」と願う時には、ただ単に「目を開けて欲しい」と願うのでしょうか、それとも回復を視野にいれて願うのでしょうか。

 

肺癌で入院している父を介護している時、だんだんと体力が失われ、弱り果てていき、手と足に血が回らなくなって壊死し始めていました。初めの頃は、回復してまた家での生活を願い祈っていましたが、壊死が進むにつれ、「イエス様を信じて、死後、天の御国で会いましょう」と祈っていました。かたちは違いますが、最後の方の祈りは、「霊の全くの回復、生き返り」を願うようになっていました。クリスチャンはその点、最後には「霊の全くの回復」だけを祈るものなのだと、改めて認識しました。残念ながら父はイエス様を味わうことなしに死を迎えてしまいましたが。

 

話をヤイロに戻しますと、人の親としてのヤイロは、当然、娘の全くの回復をイエス様に期待したのでしょうし、イエス様の「恐れないで、ただ信じていなさい」という言葉に、その希望を再び与えられたのです。ヤイロのイエス様のこの言葉に、素直に従うそして必死の信仰が、娘を生き返らせ、全くの回復を成し遂げたのです。

 

さて、長血の女性の場合はどうでしょうか。彼女も、12年間の闘病生活で、高い治療費によって全くの貧乏となり、また身も心もボロボロだったに違いありません。もう生きる望みもなくしている状態だったかも知れません。しかし、そこに今評判のイエス様に出会います。あの方の「着物にさわることでもできれば、きっと直る」と『いえ、直らせていただかないと、私は死ぬしかない』と思い、そのことを実行します。恐らくその女性は、乞食同然のみすぼらしい恰好をしていたのかも知れません。イエス様の前に平伏して、癒しを乞い願うのも恐れ多いと感じたのでしょう。イエス様は、その事情を知り、「あなたの信仰があなたを直したのです。」とおっしゃいました。彼女の「イエス様なら直していただける」という必死な信仰が、彼女を全く癒したのです。

 

ヤイロの願いは、自分の救いではありません。娘の救いです。いわばとりなしの祈りと同じです。そして、長血の女性の願いは、自分の救いです。自分の回復や救いの祈りについては、だれでも必死になれるでしょう。しかし、とりなしの祈りはいかがでしょうか。自分の事と同じように必死に祈っているでしょうか。ある方は涙を流して、相手の方のお祈りをされているとお聞きしました。私は、今回、この説教を準備していく中で、イエス様が私に、「あなたのとりなしの祈りは必死ですか」と問われているような気がしてなりませんでした。聖書が三人の福音書記録者に、このヤイロのとりなしの祈りの中に、長血の女性の自分の祈りを差し入れている意味に、今回初めて気づかされたような気がします。イエス様は、少なくても私に、「とりなしの祈りも、自分のための祈りの時の様に、必死になって祈りなさい」と教えてくださっています。「恐れないで、ただ信じていなさい」その言葉を触れるたびに、『臆せず、大胆に、私の前に出て、誰のことに対しても必死に祈りなさい』と私には聞こえるのです。

 

今から、黙想の時をもちます。目を閉じて、気持ちを楽にしてください。声を出さずにイエス様に問いかけてみてください。今日の学びの感謝とともに、まず主をほめましょう、主に感謝しましょう、主の御名をたたえましょう。そして、今日のメッセージの中で導かれた思いをイエス様に告白してみてください。賛美をすることも、祈ることも全てを主に任せて導きのままになさってください。(3分間黙想)

 

お祈りをいたします。

愛する天のお父さま、今朝は、イエス様の「恐れないで、ただ信じていなさい」というお言葉の中に、深い信仰を見せていただきました。私たちが、もっともっと真剣に主の御前にたち、また必死の祈り、特にとりなしの祈りにおいて、自分のこととして祈れますようお導きください。これらの思いを御手にゆだね、主イエス・キリスト様の御名により、感謝と共にお祈りいたします。アーメン。

 

賛美: 今月の歌・新聖歌397「神の御子にますイエス」

今月のワーシップソング「Open Our Eyes」

「主の祈り」(新聖歌p826)




Open Our Eyes

(Words & Music by Bob Cull) Acts 26:18

Open our eyes Lord

We want to see Jesus

To reach out and touch Him

And say that we love Him

Open our ears Lord

And help us to listen

Open our eyes Lord

We want to see Jesus

 

Reach out: 手を伸ばして届く