通年主日親子礼拝主題:『イエス・キリストの生涯』
2017年11月5日
礼拝前祈祷:9:30 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り
礼拝:10:00
賛美: 今月のワーシップソング 「Glorify Thy Name」
祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り
賛美: 新聖歌112「カルバリ山の十字架」
聖書拝読:マタイによる福音書14章1節~13節(新改訳聖書)(輪読)
中心聖句:「イエスはこのことを聞かれると、舟でそこを去り、自分だけで寂しい所に行かれた。」(13a)
メッセージ主題:『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。』
おはようございます、そしてお帰りなさい。
先週は、『自分のための祈りとおなじぐらい必死でとりなしの祈りを』と題して、会堂管理者ヤイロの娘の生き返った話と長血を患った女性が癒された話を通して、祈りの必死さ・切実さを学びました。今朝は、バプテスマのヨハネの死を知らされたイエス様の悲しみとイエス様のバプテスマのヨハネに対する想いを学ばせていただきたいと思います。
まず、お祈りいたします。(祈り)
諸教会においては、今朝の礼拝は、ルター宗教改革500周年記念礼拝が持たれておられることでしょう。1517年、カトリックから離れ、プロテスタント教会が誕生し、そして誰でも聖書を自由に読めるようになった記念すべき年です。ルターの最も大きな功績は、「信仰義認(信じただけで義《聖潔という正しさ》とされる)」ですが、ルターが新しく提唱したことではなく、聖書のアブラハムの信仰に立ち帰ったことでした。「彼(アブラハム)は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(創世記15:6)律法を守り、道徳的に完全を目指して、義に到達するという信仰ではなく、ただただ神、神のことばをしんじたことが、義と認められる唯一の条件であるという信仰に、ルターは、民衆を導いたのであります。当教会では、そのことも考えなら、イエス様のバプテスマのヨハネへの想いを感じたいと思います。
マタイの福音書にしても、マルコの福音書にしても、ヨハネの死の記述は、イエス様がバプテスマのヨハネのよみがえりだと噂されていることに対して、参照的に挿入されています。ですから、読者は一瞬錯覚をするかも知れません、イエス様とヨハネが同時に活躍していたのだと。実は、ヨハネがヘロデによって投獄された後に、イエス様は福音を伝え始めています。マルコ1章14-15節「ヨハネが捕らえられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。『時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて、福音を信じなさい』。」このイエス様のお言葉は、マタイでは「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」と記録されています。そして、この言葉は、バプテスマのヨハネが神の教えを宣べ伝えていた全く同じ言葉でした。マタイ3章1-2節「そのころ、バプテスマのヨハネが現われ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから』。」まるで、バプテスマのヨハネからイエス様へと宣教のバトンが渡されたような形となっています。当然、ヨハネは「私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。」(3:11)と自分の立場と役割をよく理解し、高ぶることなく、自分を「荒野で叫ぶ者の声」に過ぎないと述べています。
では、イエス様はヨハネをどのように評価されていたのでしょうか。ルカ7章28節では、「あなたがたに言いますが、女から生まれた者の中で、ヨハネよりもすぐれた人は、ひとりもいません。しかし、神の国で一番小さい者でも、彼よりすぐれています。」マタイ11章でも同じ記述があり、14節では、「あなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人(ヨハネ)こそ、きたるべきエリヤなのです。」と、主の日の前にエリヤが来ることを告げる旧約の預言がヨハネによって成就したことを述べています。このように、イエス様はヨハネをエリヤだとし、高く評価していました。これは、またヨハネが投獄されている時のことです。
イエス様とヨハネは遠縁にあたりますので、お互い少しは聞き知っていたことでしょうが、特に大人になってからの直接の交流はなかったのではないでしょうか。しかし、お互いに主の道における役割を理解し、尊重していました。そして、ヨハネが投獄された時点で、ヨハネの任務は終わり、同時にイエス様が宣教を開始されるのです。イエス様ご自身、ヨハネの任務が終わったことは悟られていました。ですから、ヨハネをエリヤだと評価したのです。
さて、同じように「悔い改め」を重視し、神のもとに帰るように促したヨハネの死に対して、イエス様はどのような思いを抱かせたのでしょうか。「道半ばにして惜しい人を失くした」と思われたのでしょうか。いいえ。ヨハネの任務は完了していました。私は、イエス様は天の父上に、ヨハネを送ってくださったことへの感謝をささげていたのではと思わされています。また、旧約時代の最後の預言者であるヨハネを天の父上にお返しされる祈りをされていたのかも知れません。
ヨハネは、自分を無にし、すぐに消えてしまう「声」だとしました。彼は砕かれた心を持っていたともいえます。詩篇で言うところの、「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ、あなたは、それをさげすまれません。」(51:17)の砕かれた心です。イエス様は、その砕かれた心の持ち主であるヨハネを尊ばれたのでしょう。そして、ヨハネの死によって、御自身の犠牲の死を思われたかもしれません。ヨハネの死は旧約時代の終わりをつげ、イエス様の十字架上での死は、民衆の罪の呪縛の解放の始まりでもあります。しかも、その救いは、ヨハネとイエス様が唱えておられた、「悔い改め」から始まるのです。
悔い改めは、神様から離れている心を、神様の方に向け、また心の中心に据え置く作業です。そのためには聖霊による砕かれた心が必要となります。心が砕かれていない状態、まだ自我の残った状態では、真の悔い改めには至りません。また、イエス様を本当に信ずることも未完成です。信じることも、悔い改めも心の状態ではありますが、その心の状態が行いとして現れるのは、「従う」ということです。信じることも、信頼することも、悔い改めることも、全ては「主に従う」という行いによって証しされるのです。ヨハネは自分が無であることを知り、全く主に従いました。イエス様はそのヨハネの死を殉死としてたたえたに違いありません。
イエス様とヨハネの「悔い改めよ」も、またルターの「ただ信じなさい」という勧めも、「主に従う」という決意と行ないによって成し遂げられるのです。私たちが、永遠のいのちに至るかどうかは、主の憐れみによるものではありますが、私たちが主に従わなければ、イエス様の十字架の贖いも聖書の御言葉もまったく効力を発揮できないのです。どうか、主によって自我を砕いていただき、実際に主に聞き従う者とさせていただきましょう。そうすれば、天国はすでにあなたの内にあるのです。キリストがいのちであり、天国だからです。
今から、黙想の時をもちます。目を閉じて、気持ちを楽にしてください。声を出さずにイエス様に問いかけてみてください。今日の学びの感謝とともに、まず主をほめましょう、主に感謝しましょう、主の御名をたたえましょう。そして、今日のメッセージの中で導かれた思いをイエス様に告白してみてください。自我を砕いていただきましょう。主の声を求めてください。そして、主を信じれば、従わないといけません。主の声を聞けば、従わないといけません。祈りをすれば、主の答えがなんであれ、従わないといけません。私たちが祈る相手は、創造の神であり、全能の神であることを忘れないで下さい。(3分間黙想)
お祈りをいたします。
愛する天のお父さま、今朝は、イエス様とバプテスマのヨハネの「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」というお言葉から、自我を砕いていただき主に従うことを教えていただきました。私たちが、もっともっと真摯に主の御前にへりくだり、主の言葉を求め、求めたかぎりは従う者とさせてください。これらの思いを御手にゆだね、主イエス・キリスト様の御名により、感謝と共にお祈りいたします。アーメン。
賛美: 今月の歌・新聖歌166「威光・尊厳・栄誉」
今月のワーシップソング「Glorify Thy Name」
「主の祈り」(新聖歌p826)
Glorify Thy Name
Father, I love You,
I praise You,
I adore You,
Glorify Thy name in all the earth.
Glorify Thy name,
Glorify Thy name,
Glorify Thy name in all the earth.
(Jesus)
(Spirit)
praise: 賛美する、ほめたたえる
adore: あがめる
glorify: 栄光をたたえる、賛美する
Thy: あなたの、なんじの
in all the earth: 全地で
Spirit: 聖霊