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「ひとりよがりの祈り」

つかしん朝祷会(2017.11.24)

 

「ひとりよがりの祈り」

 

中心聖句(コロサイの信徒への手紙2:20-23)

「あなたがたは、キリストと共に死んで、世を支配する諸霊とは何の関係もないのなら、なぜ、まだ世に属しているかのように生き、「手をつけるな。味わうな。触れるな」などという戒律に縛られているのですか。これらはみな使えば無くなってしまうもの、人の規則や教えによるものです。これらは、独り善がりの礼拝、偽りの謙遜、体の苦行を伴っていて、知恵のあることのように見えますが、実は何の価値もなく、肉の欲望を満足させるだけなのです。」(新共同訳)

「これらのことは、ひとりよがりの礼拝とわざとらしい謙そんと、からだの苦行とをともなうので、知恵のあるしわざらしく見えるが、実は、ほしいままな肉欲を防ぐのに、なんの役にも立つものではない。」(口語訳)

 

おはようございます。初めまして、若竹と申します。よろしくお願いいたします。

今回は、初めてということもありますので、私の証しを中心に、示されました御言葉を共に学び味あわせていただきたいと思います。

 

私は、プロフィールにもありますように、アメリカ留学2年になろうかという時に洗礼を受けました。1983年6月4日です。その約一年前、1982年の春にクリスチャンのグループと出会いました。その当時、私は留学生と大学院生が入る寮で生活をしていました。留学生のクリスチャンのグループはいつも同じテーブルで食事をとっていました。ある時、私がたまたま一人で食事をしていますと、彼らが寄って来て私を一緒のテーブルに誘ってくれたのがきっかけです。そして、日曜日のサンデーディナーに来ないかと誘われました。日曜日の朝は寮で食事がでますが、昼食と夕食はございません。少し遠くにあるレストランに食べに行くか、近くのコンビニでパンなどを買うか、ピザの宅配をしてもらうかぐらいしか選択肢はありませんでした。アメリカの大学町は田舎で、車がないと大変です。しかし、クリスチャンの留学生たちは、毎週、集まっていろいろな国の料理を作りあっていたのです。彼らがクリスチャンであることは初めから知っていました。アメリカに来て、キリスト教のことやキリスト教の影響のある文化も知らないのも、民俗学を学んでいる者としてはなんだかなぁ思っていましたし、毎週の夕食にもパターンが決まっていて飽きてきていましたので、興味本位で参加することにしました。また、彼らの笑顔に魅かれたことも事実です。同じ留学生としていろいろ大変なところを通っているはずなのに、何かが違うと感じていました。それからというもの、日曜日は教会に行き、分からぬまま、賛美をし、説教を聞き、午後にはみんなで聖書の勉強と食事会、それに小グループに分かれての分かち合いと祈り合い、そのようなリズムが私の中に作られていきました。また、毎週水曜日の夜には、3人の男子クリスチャン留学生といっしょに、祈り会をさせていただきました。この祈り会は洗礼後も続き、私の信仰成長の助けとなっていました。

 

洗礼は、浸水式のもので、小学校のプールで行われました。信仰告白をみんなの前でし、バプテスマを受けました。今でもそのバプテスマのことは鮮明に覚えています。後ろに倒れ、水の中にすっぽり身体を沈め、牧師先生に起こしていただく。それだけのことなのですが、起こしていただいた時には、泣きじゃくって、涙がなかなか止まりませんでした。自分でも思いもよらぬことで、嬉しさというよりは、一種の決別への涙であり、うしろを振り返ってはいけない、後戻りをしてはいけないと自分に言い聞かせていたような気がします。この時に与えられた御言葉が、1テサロニケ5章16節~18節「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(新改訳)私の一生涯の聖句の一つとなりました。今ではこの聖句に19節も加えさせていただいています。「御霊を消してはなりません。」 そして、この洗礼の時の、後ろに倒れて、すべてを神様に任せる、委ねる感覚は、二十数年後に私の「神に拠り頼む」ことの理解を助けることになります。

 

洗礼後、私は積極的に教会活動へと導かれました。そんな中で、「神学校に行って福音を伝える者になりなさい」という声が祈りの中で聞こえてきました。私は戸惑っていました。なぜなら、私は留学中の身で、民俗学の修士もまだとっていませんでしたし、家の宗教は仏教ですし、その時はアメリカの大学で日本語を教えていまして、大学院の学費が免除されかつ給料をいただいていましたので、それを全部放棄して神学校に行かなければなりません。両親にはキリスト教に回心したことはまだ告白できていませんでしたから、もうこれ以上経済的にそして精神的にも負担をかけるわけにはいきませんでした。悩んで牧師先生に相談しました。全てをお話しして、牧師先生は、こうおっしゃいました。「神に仕えるというのは、何も牧師になることだけではありません。教会を信徒として支えることも大切な役目です。」 私は、この牧師先生の言葉で、ホッとしました。正直、「神学校に行って福音を伝える者になりなさい」はどう考えても無理!って思っていましたので、つまり人間的な知恵で無理と思ってしまったわけです。牧師先生の言葉は渡りに船でした。「ようし、これからは教会に仕えよう」と決心しました。しかし、ここが私の間違いの始まりでした。

 

牧師先生は「信徒として教会を支えなさい。」おっしゃられたのであって、「教会に仕えなさい」とはおっしゃいませんでした。しかし、私は、日本に帰って来てからも、ほんの数年前まで「教会に仕える」ことをしてきました、それも熱心に。間違いに全く気がつかずに。

 

今から5年ほど前、神様は私に「聖書をもっと読み、わたしを学びなさい」とおっしゃいました。いえ、そのような声が祈りの中で聞こえたと思ったのです。そして、しばらくすると今度は、「わたしに拠り頼みなさい」と聞こえてきました。「え?私は拠り頼んでいませんか」「もうこれ以上拠り頼み方が分かりません」「これ以上、教会の奉仕は時間的にできません」。とことん勘違いをしている私でした。神様のおっしゃる寄り頼む方法が分からなくて、ずいぶん悩みました。そしてだいぶ経ってから、洗礼の時のことをふと思い出したのです。「主に全てを預ける。後ろ向きに倒れても主が支えてくださることを信じる。自我をくだいていただく」ことだと一瞬のうちに分からせていただきました。「分かった、分かった、分かりました」と言いながら小躍りし、喜びの涙を流していました。わたし、涙腺が弱いのです。

 

また、その寄り頼むことへの気づきにあずからせていただく前に、神様から「わたしに仕えなさい。神学校に行きなさい」という声が聞こえてきました。これは、聖書を読んでいるときでした。それは、約28年前に聞いたことと同じことでした(あの時は英語でしたが、今回は日本語でした)。しかし、私は好都合なことにいろいろな言い訳を持っていました。第一の言い訳は、家の多額のローンが73歳まであるということです。バブル時代に購入したマンションで月々のローンの返済に追われるように一生懸命働いていました。教団の神学校は全寮制です。ローンを抱えたまま入学は許されませんし、事実上無理でした。第二の言い訳は、実は私は離婚しています。(お恥ずかしい話ですが、このつかしんチャペルで結婚式をあげさせていただきました。ですから、このチャペルにはいろいろな思いが交差いたします。)「離婚しているのに牧師が務まりますか、神様。」「何かのお間違いではないですか。」まだほかにもいろいろと言い訳に指を折りました。

 

神様の答えは、第一の言い訳に対して、「通信制があります。わたしに仕えなさい」でした。しかし、いくつかの神学校の通信制を検討しましたが、結局さまざまなことで門が閉ざされて行きました。そして最後に残ったのが、ペンテコステ派の生駒聖書学院でした。生駒聖書学院はその当時ホームページには通信制のことを掲載してはおらず、友人から通信制のことをお聞きしたのです。しかし、私の日本での母教会は福音派でしたので、ペンテコステ派の神学校は、到底受け入れられない選択肢でした。それに、通信制を選ぶ時点で、教団を離れないといけなくなることは必至でした。その時にある夢をみました。愛する母教会を去って行く夢です。私は母教会で骨をうずめるつもりでした。ローンの返済が終われば、教会の近くに引っ越して、教会堂とそのまわりを毎日掃除するのが、老後の夢でした。しかし、それもかなわなくなりました。当時、新会堂の話が具体的になってきた頃で、私も新会堂建築委員でしたから、「どうしてそんな夢を見させるのですか」と神様に泣きながら問いました。(よく泣くでしょう。涙もろいのです。)しかし、神様の答えは「わたしに仕えなさい」でした。その時に示されましたのが、わたしの「ひとりよがりの信仰生活」でした。今朝の御言葉でもあります、コロサイの信徒への手紙の「ひとりよがりの礼拝、わざとらしい謙遜」でした。(母教会では口語訳でした) 私はアメリカでの牧師先生の助言を勘違いして「教会に仕える」ことに熱心で、そして、そういう自分に満足していて、実は神様に仕えることを二の次にしてきたことを示されました。神様が私を正そうとされておられることを認めざると得ませんでした。そして、第二以降の言い訳も、その瞬間に木端微塵となっていました。神様が用いられようとされるなら、私のような取るにたらない石ころの存在でも用いられるのだと、私の思いを放棄し、神様に屈服しました。「もう言い訳は致しません。示される道をつぶやかず、喜んで進ませていただきます」と神様にお伝えし、長い間の勘違いと自己満足を悔い改めました。

 

生駒聖書学院の榮義之学院長にダメもとで面談させていただき、経緯をお話しし、先生も祈ってくださって、母教会の牧師先生の推薦状もないままではありましたが、入学を認めてくださいました。そして今年の三月神学校を卒業させていただき、7月から自分の事務所を教会として神様から預かり、まだ信徒の方はいらっしゃいませんが、ひとりで礼拝を守らせていただいています。今でも、いえ今だからこそ、すべて、主の導きであったと信じています。そして、そのようにこれからも歩ませていただきたいと願っています。

 

私は生駒聖書学院を卒業させていただく時に、次の御言葉が与えられています。これは口語訳聖書の方がピンとくるのですが、1コリントの9章23節です。「福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。」これはパウロの決意です。パウロはテントメーカーでした。私も今はテントメーカーとして福音をお伝えするものとさせていただく覚悟です。

 

そして、約2年前から、自分の思い中心の祈りから、主の御声を聞こうとする祈りに変えられつつあることに、またその祈りが必要だと感じさせられています。私は、約30年間のひとりよがりの礼拝や信仰生活のなかで、ひとりよがりの祈りをしてきたような気がします。少なくとも、主の御声を聞こうとする祈りではなかったような気がします。主の臨在を感じられるまで、静まり続けるということが、できなかったように思います。今は逆です。主の臨在を感じるまで静まって黙想していないで、仕方なく祈り始める時には、その祈りがまったく嘘っぽく感じてしまうのです。上滑りをしているようで、ひとりよがりの祈りになっているような気がするのです。

 

詩篇は言います。

(詩篇46:11a)

「力を捨てよ、知れ/わたしは神。」(新共同訳)

「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」(口語訳)

「やめよ(むだな企てをやめ、静まれ)。わたしこそ神であることを知れ。」(新改訳)

 

そして、イザヤも言います。

(イザヤ30:15b)

「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(新改訳)

 

忙しい現代社会の中で、私たちは、主の臨在を感じるまで、一人となって、静まり続け、主の御声を待ち続けるという黙想の時間を祈りの中にもうけるということを忘れていないでしょうか。「とりあえず祈ろう」そして「祈ってしまおう」という何か仕事でもするような祈り方をしていませんでしょうか。実はそれが私の今までの姿です。静まって神を知り神の臨在を感じることで、主の平安の内に自らを置かせていただければ、主に寄り頼むことができます。そして、それが力となるのです。その力によって私たちは本当の意味での祈りができるのではないでしょうか。

 

お祈りいたします。

 

愛する天のお父さま、御名を讃美致します。今朝は、「ひとりよがりの祈り」と題されたメッセージに導いていただきましたことを感謝いたします。どうか私たちが常に、静まって、あなた様を神とあがめ、賛美し、主の御声を聞く事ができますように、平安の中に力をいただき、その力によって祈りに導かれますように、今朝私たちにお教えくださいましたことを心から感謝いたします。また、あなた様は、「わたしの恵みは、あなたに十分である」とおっしゃいます。私たちは弱いものです。しかし、弱いがゆえに、主に寄り頼むことを覚える者です。どうか常に、私たちが主を信頼し頼りにすることができますように、主にあって強くなりますように、どうか私たちをお導きください。主イエス・キリスト様の御名により、このお祈りをおささげ致します。