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メッセージ主題:『ほしいだけ分け与えられる主を味わっていますか』

通年主日親子礼拝主題:『イエス・キリストの生涯』

2017年11月26日

礼拝前祈祷:9:30 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 今月のワーシップソング 「Glorify Thy Name」

使徒信条: 新聖歌p.826

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌253「イエスの御腕に」

聖書拝読:ヨハネによる福音書6章3節~15節(新改訳聖書)(輪読)

中心聖句:「そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。」(11)

メッセージ主題:『ほしいだけ分け与えられる主を味わっていますか』

 

おはようございます、そしてお帰りなさい。

先週は、『イエス様一筋』と題して、イエス様の毒麦とからし種の譬えをとおして天の御国と教会のことを、そして反キリストのことを学ばせていただき、結局は、イエス様から目を離さないようにすることが一番大切であると悟らせていただきました。今朝は、五つの大麦パンと小魚二匹による5000人の給食を通して、イエス様の奇跡を見せていただきたいと思います。

まず、お祈りいたします。(祈り)

イエス様につき従っていた人々は、男性だけで約5000人、女性や子どもを合わせると、ゆうに7,8000人はその場にいたのではないでしょうか。この人たちはなぜ、イエス様につき従っていたのでしょうか。ヨハネ6章2節には、「イエスが病人たちになさったしるしを見たから」とあります。では、質問を変えてみましょう。何をその大勢の人々はイエス様に期待したのでしょうか。ある人は、病気の癒しでしょう。またある人は、教えを聞きにきたのでしょう。また、奇跡を見学にきたのかも知れません。なにかなんだか分からずも、みんなが行くからついて来たのでしょうか。それか、パリサイ人のように批判的に興味をもち、すきあらばやり込めようと虎視眈々とそのチャンスを狙ってついて来たのかも知れません。どちらにしても、これら5000人の人々の集まりは、この世の中の縮図です。いろいろな人々がさまざまな動機でイエス様を見に来たのです。

 

夕方でしたので、全員お腹が減っていました。しかし、弟子たちには5000人もの人の食事を用意するお金も材料も持ち合わせていませんでした。ただ、少年が差し出した五つの大麦パンと二匹の魚が手許にあるだけでした。イエス様はそのパンと魚を取り、感謝をささげてから、5000人の人に欲しいだけ分けあたえられました。イエス様が直接5000人の人々に手渡されたのではなく、後で十二のかごの記述がでてきますので、十二人の弟子たちによって配さん形式だったのでしょう。それは今日の聖餐式や献金の様子とよく似ていたのではないでしょうか。とにかく、民衆は満腹するまで食べ、残ったパン切れをあつめると十二のかごいっぱいになりました。つまり、みんなが食べたにもかかわらず、増えたのです。

この事実から、今朝は二つのことが導かれました。一つは、①「イエス様は民衆にとってのいのちのパンである」ことと、もう一つは②「神の国と神の義を求めれば、すべての必要が与えられる」ことであります。

 

  1. 「イエス様は民衆にとってのいのちのパンである」

ヨハネはイエス様の言葉を記録しています。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(ヨハネ6:35) また、サマリヤの女に対して、「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4:14)と述べられます。イエス様のおっしゃられる「いのちのパン」や「永遠のいのちへの水」は、実際のパンや水ではありません。この5000人の給食は実際の食べ物ではありますが、いろいろな人々の集まりである民衆全員が、イエス様が感謝し祝されたパンや魚をいただき満足しました。これは、イエス様の福音を聞き、満足する対象が一人ももれず全員であることを示唆しているとも考えられます。ヨハネの記述によりますと、イエス様は「余ったパン切れを、一つも無駄に捨てないように集めなさい」とわざわざおっしゃいました。これは何を意味しているのでしょうか。この時のパンが福音であると考えますと、イエス様は私たちに「福音をむだにしてはいけません」また「一つもむだになることはありません」とおっしゃられているような気がしてならないのです。しかし、福音を聞いて喜んだはずの民衆は、イエス様が後に祭司長たちによって捕まえられると手のひらを返したように、ある者はさげすみ、ある者は嘲笑い、またある者はののしる者と化してしまいます。弟子たちでさえ一時、蜘蛛の子を散らすように逃げてしまいます。これは、5000人の民衆であるこの世界が、福音を喜んで聞いたとしても、イエス様自身につまづく人が多いことを表してもいるのです。民衆が、救いを求めながらも、実際のパンに満足し、神の義と神の国を求めようとしなかったことです。

 

  1. 「神の国と神の義を求めれば、すべての必要が与えられる」

マタイは次のイエス様の言葉を記録しています。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これら(日常必需品など)のものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)イエス様は、お腹のへった民衆に対して、満足するまでパンをお与えになりました。それは、イエス様の民に対する憐れみです。民衆はイエス様の不思議と力をほめたたえたでしょう。また、イエス様はひょっとすればキリスト、メシヤではないだろうかと思ったかもしれません。しかし、神の国と神の義を、イエス様に見ることはできませんでした。いえ、見ようとしていなかったのかもしれません。イエス様はナザレの出身で、生身の人間と何も変わらないからです。彼らは、口々にイエス様をほめたたえましたが、生身のイエス様の外見につまづいたのです。5000人の民衆は、イエス様を通して、神の国と神の義をまず第一に求めようとはしませんでした。

 

私たちはどうでしょうか。私たちはイエス様をキリストと信じていると告白しています。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」という聖句も「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」という聖句も知っています。いえ、もっともっと他の聖句も慣れ親しんでいるでしょう。ですから、私たちは、イエス様の御言葉を聞いているのです。しかし、本当にイエス様を私たちの食べ物、飲み物としているでしょうか。本当に神の国と神の義をまず第一に求めているでしょうか。私たちの日ごろの祈りはいかがでしょうか。私たちは、「ああして欲しい」「こうして下さい」「あのことから守ってください」「このことから遠ざけてください」と具体的な祈りだけになっていませんでしょうか。イエス様は「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」とおっしゃったのです。神の国と神の義はイエス様にあります。イエス様しか、神の国と神の義について知る方はほかにはいらっしゃいません。天から下りてこられたのはイエス様ただお一人だけです。つまり「イエス様=神の国、神の義」なのです。もっと言えば、イエス様を味わうこと自体が、神の国と神の義を求めることなのです。5000人の民衆は、イエス様の憐れみによって、イエス様からのパンをいただき満足しました。彼らはイエス様からの恵みを味わったのです。しかし、イエス様を味わうことはしませんでした。私たちは、イエス様を味わっているでしょうか。それとも、イエスから与えられた恵みを味わっているだけでしょうか。

 

民衆はこのあと、イエス様を王とするために、つまり王にしたててかつぎあげるために、無理矢理連れて行こうと考えました。(15節) 本当にイエス様を味わっているなら、そんなことをしようとも思えないはずです。イエス様を真の王と見なすなら、王にひれ伏すはずです、言葉に従い屈服するはずです。民衆のしようとしたことは、バアルの金の牛を作ろうとしたモーセの民となんら変わりはありませんでした。ですから、イエス様は、民衆の悟りのないことを悲しみ、祈るために、ひとり山に退かれたのです。私たちはイエス様を王とし、ひれ伏していますでしょうか。王であるイエス様の御声を聞こうと、御側に寄り添い、お言葉を求めているでしょうか。イエス様を悲しませて、ひとり山に退かれたりさせていませんでしょうか。イエス様を味わって下さい。

今から、黙想の時をもちます。目を閉じて、主を求めてください。まず、いっさいの世俗的なお願い事をやめて、またとりなしの祈りもいまは横においておきましょう。主の臨在を感じてください。イエス様とあなたが重なるようになるぐらい、主を招き入れてください。すべてはここから始まります。イエス様を味わってみましょう。それが、神の国と神の義をまず第一に求めることです。(3分間黙想)

お祈りをいたします。愛する天のお父さま、今朝は、5000人の給食をとおして、イエス様が分け隔てなく私たちの必要を満たして下さる中で、まずはイエス様を常に味わうことが出来ますように、私たちをお導きください。私たちすべての思いを御手にゆだね、まず神の国と神の義を求めつつ、主イエス・キリスト様の御名により、感謝と共にお祈りいたします。アーメン。

賛美: 今月の歌・新聖歌166「威光・尊厳・栄誉」

今月のワーシップソング「Glorify Thy Name」

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:2コリント13:13

Glorify Thy Name

 

Father, I love You,

I praise You,

I adore You,

Glorify Thy name in all the earth.

Glorify Thy name,

Glorify Thy name,

Glorify Thy name in all the earth.

 

(Jesus)

(Spirit)

 

praise: 賛美する、ほめたたえる

adore: あがめる

glorify: 栄光をたたえる、賛美する

Thy: あなたの、なんじの

in all the earth: 全地で

Spirit: 聖霊