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メッセージ主題:『いのちのパン』

通年主日親子礼拝主題:『イエス・キリストの生涯』

2017年12月10日

礼拝前祈祷:7:30 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:8:00

賛美: 今月のワーシップソング 「I Love You Lord」

使徒信条: 新聖歌p.826

交読: 交読文3:詩篇第16篇:新聖歌p.880-881

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌78「荒野の果てに」

 

聖書拝読:ヨハネの福音書6章22節~71節(新改訳聖書)(輪読)

中心聖句:

「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(35)

「わたしはいのちのパンです。」(48)

「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」(51)

「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」(63)

 

メッセージ主題:『いのちのパン』

 

おはようございます、そしてお帰りなさい。

先週は、『目をそらしてはいけない、疑ってはいけない』と題して、イエス様の湖上での歩行とペテロのその失敗から、「主から目を反らさない」ことの大切さとそれが生死にかかわるということの理解を導いていただきました。今朝は、『いのちのパン』と題して、パンを求めて集まった群衆に対して、ご自身が「いのちのパン」であることを説かれたところから、いのちのパンであるイエス様を食べるということは、どういうことなのかを理解するように導いていただきたいと思います。

 

まず、お祈りいたします。(祈り)

 

イエス様は、群衆に対して、モーセの時代の天からのマナを引き合いに出されました。マナはモーセの率いる民が荒野での40年間命をつないだ、天からの食べ物です。このマナについてはまたいつか機会がございましたら、詳しく見ていきたいと思いますが、今日はそれよりもイエス様のことを学びたいと思います。そのマナはモーセが天から降らせたのではなく、神様がその民にお与えになったものです。そして、イエス様は33節で、「神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。」とおっしゃいます。何と魅力的なことばでしょうか。5000人にパンを与えられたことを知っている群衆は同じようにパンを求めて集まってきています。しかし、イエス様は、モーセの時代のマナを例に出し、神のパンは世にいのちを与えるとおっしゃられ、群衆に「その神のパンがほしい」と思わせたのです。実際のパンから神のパンに興味を移させました。食べてもまた天から降ってくるマナと同じようなものを期待させたのです。そして、群衆は「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください。」(34)と願いました。しかし、イエス様は次の言葉によって、群衆の「パン」のイメージを混乱させます。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(35)神のパンはイエス様であり、いのちのパンであるとおっしゃられるのです。群衆はここで確実に、実際のパンをいただけるのではないことを、またマナのような天からのパンでもないことを理解しはじめ、恐らく混乱と落胆で、静かなるざわつきが起り始めているのではないでしょうか。しかし、イエス様はその群衆の変化に気がついていながら、群衆全員に聞こえるように、語り続けます。

 

ここまでで、皆さんは、同じようなことを聞いたと思われるでしょう。そうです。サマリヤの女との会話です。ヨハネの4章13節からを見てみましょう。14節では「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」とイエス様はおっしゃいます。そして、サマリアの女はその水が欲しいとイエス様に告げます。その時には彼女は実際の水を期待していました。しかし、話が進むにつれ、イエス様がご自身をキリストであることを明かされ、サマリアの女はイエス様のおっしゃる「イエス様の与える水=永遠のいのちへの水」が実際の水のことではなく、霊のことであると悟り、喜び勇んで町に行き、人々にこのことを伝えます。サマリヤの女は、イエス様の言葉を理解したのです。それは彼女が今の生活を一新したいと心のどこかで神を求めていたからでしょう。

 

しかし、ガリラヤでの群衆は違いました。彼らはとことん実際のパンで、買わなくても、苦労しなくてももらえる、または食べても減らないパンを求めていたのです。ですから、イエス様が「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」とおっしゃった言葉に対して、群衆は、「この人は、どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか。」と議論が始まりました。彼らは、イエス様の言葉を悟らず、あくまでも実際の食物に固執してしまっていました。彼らの心は、サマリヤの女と違い、飢え渇いていなかったのです。

 

ざわついてきている群衆および弟子たちのとまどいを知って、イエス様は次のように言い換えられました。「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」(63) イエス様の話された言葉、つまり教えのことですが、その言葉が霊であり、いのちであると、そしてそのことを信じ、「わたしを信じなさい」と導かれておられるのです。事実、イエス様は40節で「わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」とおっしゃいます。

 

これらのことから、イエス様のおっしゃる「わたしはいのちのパンです」とは、イエス様を信じ、イエス様のことば・教えに耳を傾けることが霊的な行為であり、その営みが、いのちのパンであるイエス様を食べるということなのだと理解できます。そして、これはモーセ時代の天の食物マナが毎日毎日必要な分だけ一人一人に与えられたように、霊であるイエス様の御言葉を日々いただかないといけないということです。

 

今の私たちはいかがでしょうか。イエス様を「いのちのパン」として、つまりイエス様を信じつつ御言葉を霊的なパンとして、毎日いただいているでしょうか。聖書を毎日読んでいたとしても、それを「いのちのパン」として食べ、自分の生きる活力としていらっしゃるでしょうか。「いのちのパン」が私たちの中で、霊的に血となり肉となっているでしょうか。

 

今から黙想をいたします。どうか、今のご自分の生活の中で、イエス様を感じられない時があるのかどうか、「いのちのパン」としての御言葉に私たちが育まれているかどうか、もう一度振り返ってみてください。そして、主に感謝と悔い改めに導いていただきましょう。そして、主を賛美いたしましょう。主の導きに素直に従えるよう、主の平安と喜びを求めてください。

 

(3分間黙想)

 

お祈りをいたします。愛する天のお父さま、今朝は、イエス様が、そして聖書の御言葉が「いのちのパン」として私たちを霊的に成長させてくださること、救いに預かる者とさせていただくことをお教えくださり、また思い起こさせてくださいましたから感謝いたします。どうか、私たちの信仰生活を通して、主の御名があがめられますように。主イエス・キリスト様の御名により、皆さまのお祈りと合わせまして、私たちの自身と感謝をそえて、御前にこのお祈りをおささげいたします。アーメン。

 

賛美: 今月の歌・新聖歌77「きよしこの夜」

今月のワーシップソング「I Love You Lord」

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:2コリント13:13






I Love You Lordマンガ聖書物語94.jpg

(Words & Music by Laurie Klein)

 

I love You Lord,

And I lift my voice,

To worship You

O my soul, rejoice

Take joy my King

In what You hear

May it be a sweet, sweet sound

In Your ear.

 

Worship: あがめる、礼拝する

Rejoice: 喜ぶ

May it be …: ~でありますように

(祈る時のフレーズ)