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『赦される確信を持ち、心からの悔い改めを行なえ』

前略、パウロ愛兄(36)2017.1.12

『赦される確信を持ち、心からの悔い改めを行なえ』

ローマ人への手紙2:4

「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。」

前略、パウロ愛兄

パウロ兄は、「悔い改め」というのは神様の慈愛が導くとおっしゃいます。これは神は必ず赦してくださるという確信をもって、悔い改めるということでしょうか。イザヤ書では、「シオンは公正によって贖われ、その町の悔い改める者は、正義によって贖われる。」(1:27)とあり、悔い改める人は贖われるのです。ですから、心から悔い改めれば神様の憐れみによって、罪は赦されるという確信を与えていただかなくてはいけません。これは、悔い改めを軽い気持ちで行うということではありません。ただ、赦しの確信がなければ、悔い改めは無意味なものとなりますし、「悔い改めてもいっしょだ」となれば、誰が悔い改めるでしょうか。兄は、このことをおっしゃっておられるのですね。ですから、「その(神の)豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじて(はいけない)」と言われるのです。

神様は慈愛と忍耐と寛容に満ち満ちた方で、私たちの悔い改めを忍耐をもって待ち続け、憐れみをもって悔い改めるまで、手を差し伸べ続けてくださり、寛容をもって悔い改めを認めてくださるのです。そして、それらすべてが、神の愛です。パウロ兄の言うところの「軽んじる」とは、「所詮ダメだろうと悔い改めるのをあきらめる」ことです。

思い出すと、ソドムとゴモラの町を滅ぼそうとした時も、神様はアブラハムとの折衝に応じます。正しい人が50人から10人まで減らしても、滅ぼすことを待つほど、神様は寛容を現わしてくださるのです。アブラハムであるからこそできる神様との折衝ですから、私たちもできると思うのは間違いですが、私たちが主に従うことを忍耐をもって待っていてくださるのです。

ルカ兄は、イエス様の御言葉を覚えていました。「気をつけていなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます』と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい」(ルカ17:3-4)イエス様が弟子たちに赦してあげなさいを言われるのですから、神様が私たちの悔い改めをお聞き届けにならないはずはなく、必ず赦してくださるのです。そして、その赦してくださるという確信をもって、心から悔い改めましょう。

今夜の学びもありがとうございました。

草々