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メッセージ主題:『自己放棄が天に宝を積み、イエス様に従い、神の国にはいる鍵』

通年主日親子礼拝主題:『イエス・キリストの生涯』

2018年1月28日

礼拝前祈祷:9:30 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 新聖歌233「驚くばかりの」

賛美: 今月のワーシップソング 「Glorify Thy Name」

使徒信条: 新聖歌p.826

交読: 交読文9:詩篇第27篇:新聖歌p.885-886

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌428「キリストには代えられません」

 

聖書拝読:ルカの福音書18章15節~30節(新改訳聖書)(輪読)

中心聖句:

「イエスはこれを聞いて、その人に言われた。『あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」(22)

 

メッセージ主題:『自己放棄が天に宝を積み、イエス様に従い、神の国にはいる鍵』

 

おはようございます、そしてお帰りなさい。

 

先週は、『生ける水の川』と題しまして、私たちの心に生まれる「生ける水の川」の働きについての理解を深めさせていただきました。今朝は、『自己放棄が天に宝を積み、イエス様に従い、神の国にはいる鍵』と題しまして、私たちがイエス様に従おうとするとき、自己放棄なくしてイエス様に全く従うことはできないということと天に宝を積み、神の国にはいる鍵であることを学ばせていただきたいと思います。

 

まず、お祈りいたしましょう。(祈り)

 

今朝の聖書の箇所のメインのテーマは「自己放棄が神の国にはいる鍵」であります。順を追って見てみたいと思います。まず、イエス様は16節で幼子たちを呼び寄せて、「神の国は、このような者たち(子どもたち)のものです。」とおっしゃいます。また、続けて「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこ(天の御国)には、はいることはできません」と説かれます。子どものような人とはどういうことでしょうか。純真無垢な人のことでしょうか。そうかもしれません。しかし、子どもはほんとうに純真無垢なのでしょうか。私の周りにいる子どもたちはたしかに可愛いのですが、時として自分勝手で自己中心的でもあります。そのような人が天の御国に入れるとおっしゃっておられるのでしょうか。イエス様の意図はどうではないような気がします。その説明は、18節からのある役人の質問を答える形で、なされています。

 

その役人は「私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか」つまり、「何をすれば、神の国に入れますか」と問われたのです。これは、「子どもたちのような人とはどんな人、何をすればそのような人と認められるか」という問いと同じであります。イエス様は、モーセの十戒、「姦淫してはならない」「殺してはならない」「盗んではならない」「父と母を敬え」を引き合いに出してきて、律法に従うことであることと言われました。その役人は「そのようなことはみな、小さい時から守っております」と答えました。それは、本当でありましょう。現代でもほとんどの人が上記の律法は守っていることでしょう。まあ、今では「父と母を敬え」という律法の感覚は変化してきているかもしれません。しかし、それでも両親を愛し、大切に思っている人が多いのではないでしょうか。ですから、「これらの律法を守っています」と平然と言えるのは、ほぼ当たり前だとも思われます。では、なぜほとんどの人が守れそうな律法を引き合いに出してきて、イエス様はその役人に問うたのでしょうか。

 

私は、この役人は自分には全く落度がなく当然神の国に入れると思っていて、それでもなおかつ、『尊い先生』であるイエス様から、その裏打ちをしていただきたかったのではないかと思うのです。律法はすべて守っていると思い込んで自己満足しているので、『尊い先生』から褒められたかった、「それで良い」と太鼓判を押してほしかったのではないでしょうか。ですから、イエス様のことをわざわざ『尊い先生』とおっしゃったのです。そして、イエス様はそのことを見抜いておられ、「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかにはだれもありません。」とピシャリと釘をさされたのです。イエス様は神のひとり子でありながら、父である神様を第一とし、敬われ、自身はへりくだられたのです。しかし、この役人は、『尊い先生』と言いながらも、自分を高く評価してしまっていました。ここに、すでに彼の問題が見え隠れしています。

 

そのことを見抜いて、イエス様はわざわざ彼が守っていそうな律法を先に例にだし、そのうえで、次に「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります」とおっしゃいました。それは彼の隠された高慢な鼻をへし折るのには十分なものでした。「あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい」。 このイエス様の言葉に、その役人は度肝を抜かれたに違いありません。このことは、律法にものっていなければ、彼の予想をはるかに超えたものだったからです。彼は相当なお金持ちでした。誤解のないようにしていただきたいのですが、お金持ちが決して悪いわけではありません。お金持ちでなくても、ほとんどの人が自分の財産を全部放棄して人々に分けてあげるなんてことはできるものではありません。お金持ちの人ほど、寄付も献金も多くされておられるでしょう、感謝なことです。ですが、誰だって自分の生活や生活水準は守りつつ、寄付も献金もします。

 

しかし、私たちが今、頭に描いていますのは、現代の状況です。ですが、イエス様の時代、とくにイエス様と弟子たちの中では、財産は共有されていました。弟子たちはすべてを差し出し、必要に応じて分け合っていたのです。収入も全部です。余談ですが、その集められた共有財産を管理していたのが、あの裏切り者のイスカリオテのユダです。ユダは結局、その金銭を管理しつつ、金銭の誘惑に負けてしまったのです。話をその役人に戻します。

 

イエス様は、その役人に、イエス様の仲間となる条件を出されたのです、財産を放棄して、イエス様についていくことを。彼の問いをもう一度見てみましょう。彼は「私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか」とイエス様に問いました。しかし、イエス様は、「あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」と言われたのです。どこにも永遠のいのちのことは出て来ません。しかし、『イエス様について行く』ことがすなわち、『永遠のいのちを自分のものとする』ことなのです。そして、『イエス様について行く』ということは、ペテロや他の弟子たちがイエス様について行った時に行なったように、自分の仕事を捨てて、つまり自分の日常を放棄し、また自分自身も放棄することでもあるのです。それをイエス様は、その役人に「あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。」という表現でお示しになりました。ただし、貧しい人々にお金を分け与える慈善的なことが、天に宝を積むことではありません。そうでなければ、貧しい人々は、いつまでたっても天に宝を積むことはできないではないですか。イエス様のおっしゃる「天に宝を積む」とは自己放棄、自己中心の考え方を捨てる、そして、へりくだり、悔い改めることにあります。詩篇では、次のように表現されています。「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(51:17)神様がさげすまれないものこそ、天に積む宝なのです。

 

現代のクリスチャンは、自分の仕事や日常を放棄しなさいとは言われません。しかし、自己放棄である自己中心の考え方を捨て、悔い改めることは、イエス様についていく絶対条件なのです。これは昔も今も変わらないものであり、イエス様を信じるとは、そういうことなのです。

 

「自己放棄をしてイエス様を信じるのだから、貧乏になるのではないか」と思われるかもしれません。たしかに、あの役人はそのように思い、結局、イエス様について行くことはしませんでした。もともと彼は、イエス様に「今のままで永遠のいのちは自分のものになりますよ」と裏打ちしてほしかっただけなのでしょうから、財産を放棄して、しかも見返りがない貧乏人に与えるなんてことは、考えたこともないし、考えたくもなかったでしょう。そう、人間は残念なことに、慈善をする時に、ちゃんと見返りを考え、それにたいする対価を予想してしまうことが多いのです。それを偽善と呼びます。あの役人にとって、貧乏人にお金をばらまくのは、その偽善にも値しないことだったのです。

 

では本当にイエス様を信じたら、貧乏になるのでしょうか? イエス様は29節~30節のところで次のようにおっしゃいます。「まことに、あなたがたに告げます。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者で、だれひとりとして、この世にあってその幾倍かを受けない者はなく、後の世で永遠のいのちを受けない者はありません。」 イエス様はただ単に、従いたければ、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てなさいとおっしゃるわけではありません。「神の国のために」という前置きがあります。イエス様に対する信仰と家族や家庭に対する思いとを比べるならば、信仰の方が大切であるとおっしゃるのです。そして、信仰を優先した人は、この世においても豊かな祝福と、天においては永遠のいのちにあずかることが約束されるのです。また、そのようにする人は、結局、家も妻も兄弟も両親も子どもたちも、その人に戻ってくるのです。全てを捨てた信仰は主に喜ばれ、主は時に適ってあなたの足りない所を必要を満たしてくださるのです。豊かな祝福とは、この世の成功を示唆するものではありません。神様にあっての喜びや平安があるということです。ですから、この世の尺度である、地位や名誉や財産によって、神様からの祝福をはからないようにしてください。

 

最後に、イエス様はこの聖書の箇所を通して、私たちに、「自己放棄をし、悔いた心で天に宝を積み、わたしについて来なさい。そうすれば、この世にあってその幾倍かの祝福を受け、神の国では永遠のいのちが与えられます」と励まされておられます。どうか、私たちの主イエス・キリスト様を信じ、信頼し、すべてを一旦捨てて、従ってまいりましょう。

 

今から黙想をいたします。今日のイエス様からのメッセージである、「自己放棄と信仰と従順」のことを想いつつ、聖霊様に黙想を導いていただきましょう。

 

(3分間黙想)

 

お祈りをいたします。愛する天のお父さま、今朝は、イエス様について行くということは、自分を放棄し、イエス様への信仰をすべてに優先させることであり、その祝福は計り知れないことを学びました。どうか、常にイエス様を中心とする信仰へとお導きください。

主イエス・キリスト様の御名により、感謝して、皆さまのお祈りと合わせまして、このお祈りを御前におささげいたします。アーメン。

 

賛美: 新聖歌198「God Bless You」

賛美: 今月の歌・新聖歌135「御霊は天より」

今月のワーシップソング「Glorify Thy Name」

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:2コリント13:13

アーメン四唱:新聖歌59.7

 

Glorify Thy Name

(Words & Music by Donna Adkins)

 

Father, I love You,

I praise You,

I adore You,

Glorify Thy name in all the earth.

Glorify Thy name,

Glorify Thy name,

Glorify Thy name in all the earth.

 

(Jesus)

(Spirit)

 

praise: 賛美する、ほめたたえる

adore: あがめる

glorify: 栄光をたたえる、賛美する

Thy: あなたの、なんじの

in all the earth: 全地で

Spirit: 聖霊