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メッセージ主題:『主と共にいる幸せと生き返る喜び』

聖書拝読:ルカの福音書15章11節~32節(新改訳聖書)(輪読)

中心聖句:

「父は彼に言った。『おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」(31-32)

 

メッセージ主題:『主と共にいる幸せと生き返る喜び』

 

おはようございます、そしてお帰りなさい。

先週は、少し長いタイトルでしたが、『自己放棄が天に宝を積み、イエス様に従い、神の国にはいる鍵』と題しまして、私たちがイエス様に従おうとするとき、自己放棄なくしてイエス様に全く従うことはできないということと自己放棄が天に宝を積み、神の国にはいる鍵であることを学ばせていただきました。今朝は、『主と共にいる幸せと生き返る喜び』と題しまして、皆さま、よくご存じのイエス様の放蕩息子のたとえから、救いについて理解を主に深めさせていただきたいと思います。

 

まず、お祈りいたしましょう。(祈り)

 

さきほど申しましたが、今朝の聖書の箇所は、信仰に入ってからだいぶ年数の経つクリスチャンの方なら一度はメッセージで聞くか、または聖書を読み進めて行く中で出会う、イエス様の放蕩息子のたとえでございます。先ほど輪読させていただきましたが、もう一度この譬えのあらすじを追ってみたいと思います。

 

ある裕福な人には、息子が二人いて、兄はいたって真面目であり、弟はどちらかというと遊び人風であります。まるで、イソップ物語の「アリとキリギリス」のような関係ではないでしょうか。アリのように熱心によく働く長男は、父親の言うことに従い、農作業を手伝います。しかし、キリギリス性格の遊び人の弟は、父親の財産を先に分けてもらい、遠い国に旅立って、放蕩三昧、遊びに遊んで、財産を湯水のように使ってしまいます。一文無しになって困った弟は仕事を探しますが、あったのは豚の世話でした。これは屈辱的な仕事でした。ユダヤ人は豚は汚れた生き物として、肉も食べなければ飼うこともしません。ですが、彼には、もう選択肢の余地はなく、豚の餌さえほおばる始末。そこで、はたと我に返ります。「父のもとに帰って、謝って、雇人のひとりとしておいてもらおう。ここで飢え死にするよりましだ。」 はたして、彼は父のもとに戻って行きます。しかし、父親は「まだ家まで遠かったのに、彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけをし」、弟が「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません」と申し出ているにも関わらず、良い着物をあてがい、息子であることの証である指輪をはめさせ、くつをはかせ、祝いの席をもうけたのであります。父親は嬉しかったのであります。死んだと思っていた行方しらずの息子が帰ってきたのですから。まるで100匹の羊をかう羊飼いが、99匹を残して、迷子の1匹を捜し回り、見つけ出した時の喜びとおなじ、またはそれ以上の喜びがその父親に満ちあふれていたことでしょう。

 

しかし、全員が手放しで喜んでいたわけではありません。もう一人の息子、兄の方は怒って家に入ろうともしないので、父親はなだめるように、兄に言いました。今朝の中心聖句です。「おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。」 この父親の言葉に対する兄の反応はイエス様はおっしゃいませんでした。しかし、マンガ聖書物語では、兄はその父親の言葉を聞いて、弟を赦していました。

 

では、もし私たちが兄の立場だったらどうでしょうか。弟を赦すでしょうか。兄弟は他人の始まりとも言います。事実、アダムとエバの最初の息子たちである、カインとアベルでは、カインはアベルを嫉妬のために殺し、最初の兄弟であるにも関わらず、人類最初の殺人を犯してしまうのです。嫉妬や妬みや嫉みという心の罪は、人の命を奪うという取返しのつかない大罪まで犯してしまうのです。

 

イエス様のもう一つたとえを思い出してみてください。それはぶどう園での労働者のたとえです。マタイの福音書20章1節~16節にあります。朝早くから労働した人も夕方1時間ほどしか労働していない人も、同じ1デナリ、現代の1万円ほどでしょうか、その1デナリを約束通り、与えらえました。朝早くから労働した人は、その雇い主に不平を訴えました。現代の社会では当然かも知れません。あなたは1時間ほどしか働いていないのに1万円、私は朝6時から働いていたのに1万円。私にはブツブツいう権利があるじゃないですか。いえ、権利はありません。私は朝6時の時に、その主人と契約を結んだからです、朝の6時から夜の6時まで12時間働いて、その対価は1万円であることを。私は思い出しました。朝6時に雇われた時、「ああ、これで1万円いただける、ありがたい、感謝だ」と、そして、仕事中も働く喜びが与えられました。みんなで歌を歌いながら作業したり、お昼の食事も与えらえ、休憩の時には、1万円を持って帰ったときの家族の嬉しい顔を想像していました。それともう一つ、思い出しました。あなたもいっしょに朝6時にいた事を。そして、私は雇われ、あなたは雇われなかった。恐らく同じ場所でずーっとずーっと夕方の5時まで不安の中を過ごしたにちがいありません。たぶん昼食もとれなかったのではないですか。あなたはただただ待つという不安な気持ちを抑えながら11時間過ごしたのです。しかし私は喜び満ちあふれた生産的12時間を過ごさせていただきました。私には、感謝こそすれ、ご主人様に不平不満をいう権利はありません。まして、不安の中にずっといたあなたに、1時間の労働で1万円をもらったからといって嫉妬をすることもありません。だって、私の手の中には、1万円があるのですから。そして、あなたの手の中にも1万円があることを喜んでいます。

 

この裕福な農家の兄もそうでした。彼は父親の言葉どおり、弟が家を出て行ってからも、父親とずーっと一緒でした。たしかに肥えた子牛をほふったりして贅沢な祝いはありませんでした。しかし、父親といつも会話をし、いっしょに畑仕事をし、食事にも困ったこともありません。むしろ、父親と食べる豊かな食事の時間がありました。いっしょに歌も歌い、楽しい時間も過ごしていました。兄はそのことを思い出したのです。そして、もう一つのことを想像していました。弟は、恐らく大変なところを通って来たのではないかと。しもべから弟のみすぼらしい姿を聞いていました。服はボロボロ、はだしで、髪の毛もボサボサ。この農家の奴隷よりもひどい身なりだったということを。

 

兄は弟にはじめ、嫉妬しました。なぜなら、父親といることに慣れてしまって、それが本当に幸せなことなのだということを忘れていたからです。「働かされている」と思うこともあったからです。初めは、父親といっしょに働きたくて、またいっしょに働くことを嬉しく思っていたのに、それに慣れっこになってしまっていたのです。そして、この度のことで、父親にも文句を言いました、「不公平だと」。しかし、兄は思い直したのです。『愛する父が、弟の帰りをあきらめずに首を長くしてまっていた。そして、この喜びようはどうだろう。私も父と一緒に、弟の帰りを祈り待つべきだった。もしも、私が弟のようであったとしても、父は変らず私を祈り待ち、迎え入れてくれただろう。弟は大変苦労もしたようだ。慣れっこになってしまった父に対する愛情を、そして父の私たちに対する愛情と守りと平安を、弟は私に思い出させてくれた。ありがとう。』

 

弟は悔い改め、心をいれかえて、父親のもとに帰り、また息子として受け入れてもらいました。そして、兄は、慣れっこになってしまっていた父親への愛情と父の愛と守りとを確認することができました。

 

すでにイエス様を受け入れている人も、またこれから受け入れようとする人も、みなさん全員、父である神様に常に愛されています。父の愛は、あなたが今、どんな状況にあろうとも変わりません。また、天のお父さまと共に今を生きている幸せをもう一度確認してみてください。神様の御手の中に、あなたは守られてはいませんでしたでしょうか。また、父の御許に行けば、生き返ることができるのです。あなたの心が死んだも同然となっているなら、父の御許に帰りましょう。神様は必ず、あなたを受け入れ、あなたを息子とし娘とするでしょう。なぜなら、父があなたを愛し、あなたを救わんがため、あなたを受け入れるために、常にあなたに御手を差しのべておられるからです。

 

今から黙想をいたします。今日のイエス様からのメッセージである、「主と共にいる幸せと生き返る喜び」のことから、救われ生き返った時の喜び、そして救われた後、主の臨在・主が共にいてくださることをつねに感じる幸せを想ってみてください。今日、天の父は、おっしゃいます、「おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。」そして、こうもおっしゃいます、「おまえは、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。」

(3分間黙想)

お祈りをいたします。愛する天のお父さま、今朝は、主の御許に行き、悔い改めれば、主は私たちを大いに受け入れてくださり、救われた後も、常に主が共にいてくださって、私たちに平安を与えてくださいますから感謝いたします。今朝の教えを常におぼえ、主と共に歩ませてください。

主イエス・キリスト様の御名により、感謝して、皆さまのお祈りと合わせまして、このお祈りを御前におささげいたします。アーメン。