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メッセージ主題:『いのちのパン』

聖書拝読:ヨハネの福音書6章46-59節(新改訳聖書)(輪読)

中心聖句:

「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」(51)

 

メッセージ主題:『いのちのパン』

 

おはようございます、そしてお帰りなさい。

 

聖書の中で、「パン」という言葉、とても大切な意味をもっています。出エジプト記では、恐らく皆さんも「十戒」という映画でご存じかもしれませんが、モーセというユダヤ人の指導者が、エジプトの地で迫害を受けていたユダヤの民を救い出すという場面において、エジプト脱出の当日に、種を入れないパン、イースト菌の入っていないパンを食料として持って行くように、神様の命令を伝えました。その時以来、ユダヤの人々は、エジプト脱出を記念した祭り、過越の祭りといいますが、その祭りをするときには、種を入れないパンを用意いたします。普通のパンはイースト菌で膨らんでいて、美味しいのですが、日持ちがしません。腐ってしまいやすいのです。またイースト菌を入れて膨らむまでに時間をおかなければなりません。エジプト脱出には猶予がありませんでしたので、神様はそのために、モーセを通してユダヤ人に次のように命じました。「この日は、あなたがたにとって記念すべき日となる。あなたがたはこれを主への祭りとして祝い、代々守るべき永遠のおきてとして、これを祝わなければならない。あなたがたは七日間種を入れないパンを食べなければならない。その第一日目に、あなたがたの家から確かにパン種を取り除かなければならない。第一日から第七日までの間に種を入れたパンを食べる者は、だれでもイスラエルから断ち切られるからである。」(出エジプト12:14-15)

この時、神様は、パン種を入れたパンが、腐りやすいことから、イースト菌の入ったパンに、道徳的腐敗を象徴させました。エジプトでの生活を断ち切って、脱出させるためにも、種を入れないパンを食べるように、創造主である神様に従うように、ユダヤ民族に申し渡したのであります。

 

果たして、そのように、神様に従ったモーセの率いるユダヤの民は、神様の助けによって、エジプトを脱出し、約束の地、カナン、現イスラエルの地に導かれます。しかし、エジプトの地で生まれ育ち、エジプトの文化や思考に慣れきっているユダヤ民族を、ある意味鍛え直す必要がありました。人間は自己中心的であり、なかなか神に従おうとしないものであります。神の約束の地に入るまでに、神の民として神を第一におく人々に再度造り直されるために、40年という歳月が、結果的に必要でした。その40年間、約100万という民が移動し続けるわけです。当然、脱出の時に持っていた食料もすぐ底を尽きてしまいます。そこで、神様はモーセに仰せられました。「見よ、わたしはあなたがたのために、パンが天から降るようにする。民は外に出て、毎日、一日分を集めなければならない。これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを、試みるためである。」(出エジプト16:4)毎朝毎朝、天から降ってくるパン、白い種のようなもので、味は蜜を入れたせんべいのようであったと記されています。彼らはそれをマナと呼びました。マナは二日目には腐ってしまいますので、毎朝かき集めないといけません。しかし不思議なことに安息日の前の日は2倍のマナが採れ、また、一日置いても腐りませんでした。神様の定めた安息日、休息の日、神を礼拝する日には労働する必要がありませんでした。これも神様の取り計らいであります。そして、そのマナは、モーセの民が約束のカナンの地に入るまでの40年間、安息日を除いて毎朝天から降って来たのです。

神様は、ユダヤの民を神に従順するよう鍛え練り直されるだけではなく、神の選ばれし民として憐れみをもって養われたのです。まさに、マナは天からのいのちのパンなのです。詩篇78篇は、このことを教訓として詠っています。一部を紹介いたします。少し長いですが、9節から31節まで、お読みいたします。

(詩篇78:9-31の朗読)

 

さて、旧約聖書での「パン」はエジプトから脱出し解放され救われる象徴でもあり、また、神に養われ、神に従い、より頼む象徴としてのマナでもありました。新約聖書では、今朝の聖書箇所のように、イエス様ご自身が「いのちのパン」であるとおっしゃられるのです。ヨハネ6章48節から50節を見てみましょう。「わたしはいのちのパンです。あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死にました。しかし、これ(イエス)は天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。」 イエス様は、同じ天から下りて来たマナよりはるかに優れたものであることを強調しています。旧約聖書のマナは日々の糧でしたが、新約聖書では、イエス様ご自身が永遠のいのちに至る食物なのであります。ですから、イエス様は51節で「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのためのわたしの肉です。」とおっしゃるわけです。

 

このイエス様の言葉を聞いたユダヤ人は戸惑います。「『イエスが与えようとするイエスの肉』とは何だろう、どのようにして食べるのだろう」。ごくごく自然で当然の質問ではあります。イエス様は彼らの問に対して、「人の子(イエス)の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。」と答えられますが、イエス様の弟子たちでさえ、これを理解できませんでした。彼らが、イエス様の十字架上での死をむかえ、三日目に死を克服してよみがえり、40日間教えを受け、イエス様が天に上げられた後、聖霊が彼らに降りて来た時、初めて彼らはイエス様のそれまでの言葉を悟ったのです。十字架につけられる前の最後の晩餐、レオナルドダヴィンチによって描かれた絵画が有名ですが、その最後の晩餐でのイエス様の言葉さえも、聖霊が降るまで彼らは理解できなかったのです。ちなみに、その最後の晩餐の言葉はつぎのとおりです。「彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取って食べなさい。これはわたしのからだです。』また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。『みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。』」(マタイ26:26-28)この言葉は、教会の聖餐式に使われる言葉です。簡単に申しますと、「キリストのからだ(=肉)を食べる」とは、象徴的に、「キリスト(とキリストの言葉)を信じ受け入れ、従う」ことです。また、「キリストの(契約の)血を飲む」とは、「『キリストが十字架で流した血によって、人間の罪は赦された』と信じる」ことです。

 

イエス様は63節で続けて説明しています。「いのちを与えるのは御霊です。、、、わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」イエス様は、『からだや肉』、そして『血』のほかに、『御霊や霊』という一歩踏み込んだ説明をされました。つまり、イエス様のいうところのご自身のからだや肉や血は、実際のものではなく、霊的なものであると補足されたのです。そして、それは、イエス様が話された(聖書に記された)ことばであり、それがいのちであると言われるのです。このことは、ヨハネの福音書の冒頭の聖句とリンクしています。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」神は霊でありいのちそのものであります、それゆえにことばも霊でありいのちであるのです。そして、イエス様もイエス様の言葉も霊でありいのちであるとおっしゃられるのです。

 

イエス様のおっしゃる、「わたしはいのちのパンです」とは、「イエス様が永遠のいのちの源である」ことを意味しています。イエス様を信じることが、私たちを永遠のいのちに導くのであります。そしてイエス様のことば、つまりは神様のことば、そして旧約新約両聖書のことばが、私たちに永遠のいのちを得るために備えられているのです。イエス様はおっしゃいます。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。」(6:56)イエス様を信じ受け入れ従うことにより、そしてイエス様の血の贖い(罪の帳消し)を信じるならば、イエス様は聖霊として、私たちの内にとどまり、私たちを罪を犯しにくい性質への変え、永遠のいのちへと導くのです。あたかも、イエス様である聖霊と私たちが一体となっていのちの道を歩むように。そのためにも、旧約聖書でのモーセの民のマナのように、日々、イエス様に聞き、イエス様に依り頼み、イエス様を生きる糧としなければなりません。また、そうしていくために、お互いに祈り合い励まし合っていこうではありませんか。

 

お祈りをいたします。