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メッセージ主題:『仕えにきた王』

通年主日親子礼拝主題:『イエス・キリストの生涯』

2018年3月11日

礼拝前祈祷:9:30 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 新聖歌185「来たれ誰も」

賛美: 今月のワーシップソング 「Holy Holy Holy」

使徒信条: 新聖歌p.826

交読: 交読文13:詩篇第34篇:新聖歌p.889

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌504「妹背を契る」

 

聖書拝読:マタイの福音書20章17節~19節、25節~28節、21章1節~11節(新改訳聖書)(輪読)

中心聖句:

「シオンの娘に伝えなさい。『見よ。あなたの王が、あなたのところにお見えになる。柔和で、ろばの背に乗って、それも、荷物を運ぶロバに乗って。』」(21:5)

 

メッセージ主題:『仕えにきた王』

 

おはようございます、そしてお帰りなさい。

 

先週は、『イエス様の招きと受け入れ』と題しまして、エリコの町の、取税人ザアカイが救われたことを通して、イエス様は常に私たちの隠れた願いや求めをもお聞きくださり、私たちを招いてくださるお方であることを見させていただきました。今朝は、『仕えにきた王』と題しまして、エルサレム入城において、馬ではなく、ろばに乗って、人に仕えるために来た救い主なる王イエス様の姿から、「希望は失望に終わることがない」ことを学ばせていただきます。

 

まず、お祈りいたします。(祈り)

 

今朝の聖書箇所は、イエス様のエルサレム入城であります。イエス様の最後の一週間の冒頭部分で、エルサレムに入られてから、皆さまよくご存じの、最後の晩餐、イスカリオテの裏切り、十字架での死、そして復活とあります。今年は四月一日がイースター(復活祭)の日ですから、ちょうどそのイースターに向けての始まりのお話しが今朝できますことを感謝する次第でございます。

 

マタイ書の執筆者、マタイは、今朝の中心聖句をおもに、ゼカリヤ9章9節から引用しています。一度お読みさせていただきます。「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、ろばの子の子ろばに。」(ゼカリヤ9:9) ろばはおもに運搬用に用いられていました。ゼカリヤの時代は、イスラエルの民が大国バビロンに捕囚された時期を経て、エルサレムに帰還してきている時代です。この時代のイスラエルの民の「救い主」観は、バビロン捕囚からの解放でありました。民衆は、ダビデ王やソロモン王のように国を力強くひっぱってくれる馬に乗った王を期待していたかも知れませんが、ゼカリヤは、運搬用のろばにのった「救い主」を預言したのでした。

 

それから約500年後、イエス様は、ゼカリヤの預言通り、ろばに乗ってエルサレムに入りました。イエス様の姿は、武具を身にまとった姿ではなく、一般市民と同じ服装で、高ぶったところのないご様子で、入城されたのです。民衆は歓喜にわきました。彼らは、ローマの圧制から解放されることをイエス様に期待したからです。民衆は自分たちの上着を道に敷き、シュロの枝を切って道に敷き、彼らの王、ローマから民衆を救ってくれる救い主として迎えました。この時、エルサレムは、過越の祭り(エジプトからの解放の祭り)を祝うためにやってきた人々でごったがえしていましたので、過越の祭りの雰囲気とあいまって、イエス様は熱狂的に迎えられました。それが、9節で示されている通りです。「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。」 

 

しかし、イエス様はいたって冷静でした。なぜなら、イエス様は、この度エルサレムに入城すれば、彼の最大のミッション、全人類の救いである十字架での死と復活をご存じだったからです。それが、20章18節と19節に示されています。「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは人の子を死刑に定めます。そして、あざけり、むち打ち、十字架につけるため、異邦人に引き渡します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」 弟子たちはこの事をイエス様から聞いた時には、なんのことだかさっぱり分かりませんでした。彼らの「救い主」観も他のイスラエルの人々と同じように、「ローマ軍からの解放」にあったからです。ですから、今朝はあまりお話しできませんが、弟子たちはイエス様が十字架にかかった時に、彼らの「ローマ軍からの解放」という希望は、いったん失望に終わったのです。彼らは、一か所に隠れ、怯えていたのです。勿論、民衆もイエス様には失望しました。エルサレム入城の時に、「ホサナ、ホサナ」と期待感いっぱいで持ち上げていた民衆たちも、イエス様が来られたのが「ローマ軍からの解放」ではないことが分かってくれば、祭司長や律法学者たちにそそのかされ煽動されて、手のひらを返したように、「十字架につけろ」と声を荒げるのであります。彼らは自分勝手な期待とはいえ、イエス様に失望したのです。

 

祭司長や律法学者たちは、ローマ軍とうまくやっていく術をこころえ、自分たちの身の安全、つまり保身に甘んじていましたから、イエス様が民衆の間で人気がでてくるのは疎ましかったのです。彼らはいかにして自分の地位を保ち、民衆からも尊敬されかしずかれる存在でありつづけるかということに終始していました。彼らは、イエス様に期待もしていませんので、失望もありませんでした。彼らは「救い主」を真に望んではいなかったのです。

 

イエス様は「ローマ軍からの解放」のために来られたのではありません。イエス様は、全人類の罪の贖い(帳消し)、律法からの解放、神様と人間の和解、永遠のいのちにあずかる約束、それらの成就のためにエルサレムに入られたのです。それも、運搬用に用いられるろばの上に乗って、ろばのように人に仕えるために。イエス様は、エルサレムに向かう途中のエリコの町で、次のように述べておられます。「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のために、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」(20:28) イエス様は「ローマ軍からの解放」のためではなく、「全人類の救い」のために、いわば、自らの永遠のいのちをわたしたちひとりひとりに分け与えるために、来られたのであります。

 

当時のイスラエルの人々がいだいた「ローマ軍からの解放」という希望は、失望に終わり、彼らは落胆のあまり、怒りをイエス様に向けてしまいました。しかし、いまの私たちの希望は、永遠のいのちです。そして、それはすでに約2000年前に整えられ成就されました。私たちの希望は失望に終わることはありません。なぜなら、イエス様は私たちに仕えるため、私たちが永遠のいのちを得るためにこられ、その任務を全うされたのです。私たちには、これからも、さまざまな試練が待っているかも知れません。しかし、私たちは、「永遠のいのち」に関してすでに勝利しているのです。救い主イエス様を信じ受け入れた時点で、主とともに死に、主とともに復活し生きているのです。パウロもこの事を語っています。少し長くなりますがお読みいたします。ローマ書4章25節から5章5節までです。「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたかたです。ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」

 

私たちの主イエス様は、私たちに永遠のいのちを与えるために、すでに仕えてくださいました。私たちもイエス様を私たちの王として、お仕えさせていただきましょう。

 

今から黙想をいたします。今朝のイエス様の仕えるお姿、つまり十字架を覚えながら、私たちの希望は失望に終わることがないという確信をもう一度持たせていただきましょう。

 

(3分間黙想)

 

お祈りをいたします。愛する天のお父さま、今朝は、イエス様が自らを低くくし、ろばの上に乗りエルサレムに入城されましたお姿をとおし、私たちは仕えることを学ばせていただきました。感謝いたします。どうか、いつも私たちが、お互いに仕え合い、主に仕えるものでありますよう、お導きください。主イエス・キリスト様の御名により、感謝し、皆さまのお祈りと合わせまして、このお祈りを御前におささげいたします。アーメン。

 

賛美: 新聖歌397「神の御子にますイエス」

賛美: 今月の歌・新聖歌505「主われを愛す」

今月のワーシップソング「Holy Holy Holy」

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:2コリント13:13

アーメン四唱:新聖歌59.7



Holy Holy Holy

(By John B. Dykes)

 

Holy, holy, holy. Lord God Almighty!

Early in the morning our song shall rise to Thee;

Holy, holy, holy! Merciful and mighty!

God in three persons, blessed Trinity!



holy: 聖なる

almighty: 全能者、神

rise: 上がる

Thee: あなたに、なんじに

merciful: 慈悲深い

mighty: 力強い

persons: ひとりひとり別個の人の複数

blessed: 神聖なる

Trinity: 三位一体