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メッセージ主題:『主のみ心を行なう』

ぶどうの木キリスト教会

通年主日親子礼拝主題:『イエス・キリストの生涯』

2018年3月25日

礼拝前祈祷:9:30 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 新聖歌182「ただ信ぜよ」

賛美: 今月のワーシップソング 「Holy Holy Holy」(#137)

使徒信条: 新聖歌p.826

交読: 交読文15:詩篇第40篇:新聖歌p.890-891

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌428「キリストには代えられません」

 

聖書拝読:マタイの福音書21章33節~46節(新改訳聖書)(輪読)

中心聖句:

「また、この石の上に落ちる者は、粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛ばしてしまいます。」(44)

 

メッセージ主題:『主のみ心を行なう』

 

おはようございます、そしてお帰りなさい。

 

『祈りの家である内なる神殿を汚してはいけない』と題しまして、エルサレム入城後、宮の中で神様のことを考えず、商売の場所として利用していることに憤りを感じ、彼らを追い払われた、イエス様の思いを学ばせていただきました。今朝は、『主のみ心を行なう』と題しまして、イエス様が話されたぶどう園の農夫のたとえから、イエス様のこの世にこられた目的を確認させていただきます。今週は受難週で、イエス様の十字架にかかられたことを特に覚える週で、来週は復活祭イースターであります。そのことも思いつつ、今朝の礼拝も主なるイエス様に導いていただきましょう。

 

まず、お祈りいたします。(祈り)

 

まず、33節からのイエス様のたとえを見てみましょう。「ひとりの家の主人がぶどう園を造り、垣を巡らし、その中に酒ぶねを掘り、やぐらを建て」とありますように、この家の主人は、ぶどうの収穫に必要な物をすべて準備し、農夫たちに貸しました。皆さま、お気づきのように、この家の主人とは、創造主である神様のことです。神様は私たちの必要をすべて予め用意し満たしていてくださるのです。それは、婚礼の祝宴に招かれた人たちと同じであります。イエス様の婚礼のたとえを思い出して下さい。マタイ22章にあります。王は王子の結婚披露宴を設け、すべての準備をととのえたにも関わらず招待客は来ませんでした。他の人たちを招待しても彼らは断りました。そして、大通りにいる人々を招待したのです。彼らは礼服は持っていませんでしたが、王様は、その礼服までも用意されたのです。しかし、用意されていた礼服を着ていなかった人がひとりいました。その人は、来なかった招待客と同じように罰せられたのです。王様が披露宴に必要なものをすべて用意したのと同じように、このぶどう園の主人は収穫に必要なものをすべて準備し、旅に出かけました。

 

さて、収穫の時が近づきました時、主人は自分の分を受け取ろうとして、農夫たちのところへしもべたちを二度も遣わしましたが、二度とも袋叩きにされてしまいました。この主人のしもべとは、旧約聖書時代中の預言者たちのことを示しています。彼らは、当時の為政者たちに冷遇されまた命を奪われることもありました。一番最後の預言者、バプテスマのヨハネも投獄され、斬首されてしまいます。ぶどう園の主人は、最後に自分の息子を遣わしました。しかし、その息子もぶどう園から追い出して殺されてしまいます。その息子とは、イエス様ご自身のことを指しています。イエス様はすでにご自身が死を迎えることをご存じで、またエルサレム入城直前にもその話を弟子たちにしていましたが、弟子たちは悟らなかったのです。かれらもまた民衆も、イエス様がローマ軍の圧政から、ユダヤの民を救う救い主として期待していましたので、イエス様がもうすぐ死ぬことになるとは想像もしていませんでしたし、そのことを聞いても理解できないでいたのです。または、そのことを心の中で否定し、そのようになることを拒否していたのかもしてません。とにかく、この時点ではかれらのイエス様に対する期待は、イエス様の目的とは異なっていました。イエス様の目的はもって次元の高い所にあったのです、私たちの魂を死から救い出し、天の御国へと導くという、永遠の救いに。

 

冒頭での申し上げましたが、今週は受難週です。マタイ書に限って言えば、21章のエルサレム入城から最後の28章まで、この受難週一週間での出来事であります。もしできますれば、来週の日曜日のイースターまでに、21章から28章までじっくりとお読みいただければ感謝であります。

 

話を戻しますと、イエス様はこのぶどう園の主人のたとえの後、42節で詩篇118篇22節23節を引用されます。その前後を含めて、詩篇118篇の19節から25節までお読みいたします。「義の門よ。私のために開け。私はそこからはいり、主に感謝しよう。これこそ主の門。正しい者たちはこれよりはいる。私はあなたに感謝します。あなたが私に答えられ、私の救いとなられたからです。家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石となった。これは主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである。これは、主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう。ああ、主よ。どうぞ救ってください。ああ、主よ。どうぞ栄えさせてください。」この詩篇の箇所は「救い」がテーマであります。義の門とは神殿の門であり、天の御国の門であり、同時に裁きの門でもあります。正しい人、義人しかその門をくぐることはできません。その門では救いの主であり裁きの主が門の開け閉めに権威をもっておられます。「家を建てる者たちが捨てた石」とは、この世では無価値と見なされ、見捨てられた者、迫害された者のことを意味します。つまりここではイエス様のことです。その捨てられた石が「礎の石」とされるとは、私たちの心の中にある神殿、イエス様が三日で建て直すとされた神殿の基礎石となるということであり、イエス様が私たちの信仰の基盤となる、イエス様を通して神様を知ることができる、イエス様を通って、天の御国に入ることができるのであります。ヨハネはイエス様が次のようにおっしゃったのを記録しています。「わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます」(ヨハネ10:9)これは、私たちを羊、イエス様を羊飼いと見立ててお話しになったところですから、「私たちが牧草を見つける」とは「私たちが安心して喜んで、この世でも天の御国でも日々を過ごすことのできる」という比喩でもあります。この比喩は聖書全体でよく使われていますので、皆さまよくご存じでしょう。特に詩篇23篇は皆さまの愛する箇所の一つでしょう。

 

イエス様は天の御国にはいる義の門であります。そして、私たちの信仰の神殿の礎なのであります。この礎の石につまずいて石の上に落ちる人は、イエス様につまづく人であり、救いからもれる人でもあります。彼らは義の門を通ることができないのであります。また、「この石が人の上に落ちる」とは、最後の裁きの日をイエス様はおっしゃっておられます。裁きの日は必ず来ます。今かもしれませんし、もっと後かもしれませんが、必ずやって来るのです。裁きは全員が対象ですが、イエス様を本当の意味で受け入れていない人は義の門を通って、天の御国に入ることができないのです。

 

イエス様はおっしゃいます。「わたしに向かって、『主よ、主よ。』という者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。」(マタイ7:21)また、ルカ書では、「なぜ、わたしを『主よ、主よ。』と呼びながら、わたしの言うことを行なわないのですか。」(6:46)これらのお言葉は、弟子たちに告げられたものです。つまり、私たちクリスチャンに告げられたことになります。私たちは、イエス様につまづく者ではないかもしれませんが、イエス様のおっしゃることを行なっている者なのでしょうか。イエス様はこの受難週に、十字架にかかる最後の週に、パリサイ人たちの質問に対して次のように答えられます。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」(マタイ22:37-40)これは皆さまご存知の戒めでありますが、今朝は、これに付け加えまして、皆さま個人個人に主がお語り下さっている、主のみ心を思い起こしていただきたいと思うのであります。また、それを本当に素直に受け止め行なっているかどうかをさぐっていただきたいと思います。

 

今から黙想をいたします。どうか、心を解放し、すべて主にあずけた上で、主がお語り下さっておられる皆さま個人に対する主のみ心をお聞きくださいますようお願いいたします。

 

(3分間黙想)

 

お祈りをいたします。愛する天のお父さま、今朝は、ぶどう園の主人のたとえを通し、主がすべての必要を予め整えて下さっておられ、私たちが救い主イエス様を認め受け入れ従うことをお教えくださいました。また詩篇118篇からは、最後の審判において主のみ心を行なうものだけが、義の門を通ることができ救われるのであることを学ばせていただきました。そして、いま黙想の中におきまして、私たち個人個人への主のみ心を覚えさせていただき、イエス様のおっしゃることを素直に行なうことのできる者でありたいと願う者であります。どうか、今、私たちにもう一度喜んで決断させてください、「イエス様のみ心を行ないます」と。今週は受難週でございます。どうか、いつもより増して、主の十字架をあがめることができますよう、この一週間もお導きください。主イエス・キリスト様の御名により、今朝の恵みを感謝しつつ、皆さまのお祈りと合わせまして、この祈りを御前におささげいたします。アーメン。

 

賛美: 新聖歌342「神の子なるイエス」

賛美: 今月の歌・新聖歌505「主われを愛す」

今月のワーシップソング「Holy Holy Holy」(#137)

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:2コリント13:13

アーメン四唱:新聖歌59.7



Holy Holy Holy

(By John B. Dykes)

 

Holy, holy, holy. Lord God Almighty!

Early in the morning our song shall rise to Thee;

Holy, holy, holy! Merciful and mighty!

God in three persons, blessed Trinity!

 

holy: 聖なる

almighty: 全能者、神

rise: 上がる

Thee: あなたに、なんじに

merciful: 慈悲深い

mighty: 力強い

persons: ひとりひとり別個の人の複数

blessed: 神聖なる

Trinity: 三位一体