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メッセージ主題:『愛の模範』

ぶどうの木キリスト教会

通年主日親子礼拝主題:『イエス・キリストの生涯』

2018年4月15日

礼拝前祈祷:9:30 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 新聖歌171「今日まで守られ」

賛美: 今月のワーシップソング 「He is Lord」

使徒信条: 新聖歌p.826

交読: 交読文18:詩篇第50篇:新聖歌p.892-3

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌353「主イエスは救いを」

 

聖書拝読:ヨハネの福音書13章1節~20節、34節~35節(新改訳聖書)(輪読)

中心聖句:

「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(34)

 

メッセージ主題:『愛の模範』

 

おはようございます、そしてお帰りなさい。

 

先週は、『神の愛の最高の啓示の始まり』と題しまして、使徒であったイスカリオテのユダに悪魔が入り、裏切って、祭司長たちにイエス様を売ることを決意したところから、神の大いなる救いのご計画がいよいよクライマックスに入ったことを示され、イエス様のご受難が、神様が栄光を受けられることであることを、主イエス様ご自身が語られたところを通して、神様の愛の偉大さ尊さに想いをはせさせていただきました。今朝は、『愛の模範』と題しまして、最後の晩餐のところで、イエス様が弟子たちの足を洗われ、互いに愛し合うことの模範をしめされたところから、イエス様の愛の本質について学ばせていただきたいと思います。

 

まず、お祈りいたします。(祈り)

 

ユダヤのエジプトからの解放を祝う過越の祭の前、イエス様は弟子たちと夕食を共にされました。いわゆる「最後の晩餐」であります。他の福音書、マタイ、マルコ、ルカでは、「最後の晩餐」は過越の祭(種なしパンの祭りの第一日目)と記録されています。少し違いはありますが、私たちはその違いに注目するのではなく、過越の祭という「救いと解放」の背景に、イエス様が「最後の晩餐」で何をされたかに心を留めさせていただきましょう。

 

使徒ヨハネは、13章4節~5節で、イエス様が急に弟子たちの足を洗い出したことを記録しています。お読みいたします。「夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。」 弟子たちは一様に驚きます。なぜなら、足を洗うという仕事は奴隷の仕事だったからです。家の奴隷たちは、主人の客を歓迎しもてなす行為として客人の足を洗います。その奴隷の仕事をイエス様がなさったわけです。ある解説書には、このイエス様の「上着を脱ぐ」という表現と、ヨハネ書の10章11節と15節に出て来ます、イエス様のお言葉「いのちを捨てる」(羊のためにいのちを捨てます)という表現と同じものが使われていて、このイエス様の「上着を脱ぐ」という行為が、「ご自分の命を捨てる」ことの象徴であると述べています。「脱ぐ」という表現と「捨てる」という表現が私の中で一致しませんでしたので、ギリシャ語と英語が並記されています聖書で調べてみますと、そのギリシャ語は英語では「わきに置く、捨てる、犠牲にする」という意味となることが分かりました。イエス様御自身のいのちをわきに置き、つまり自分のいのちよりも、また自分のいのちを犠牲にして相手の生命を優先させる行為を象徴する表現であって、ヨハネはこの「上着をぬぎ、わきに置く」という行為を記述にしたのかも知れません。この事は、今日のメッセージに深くかかわってきます。また、後ほど触れたいと思います。

 

イエス様がペテロの足を洗おうとすると、ペテロは、「決して私の足をお洗いにならないでください」と訴えます。これはごく自然のことでしょう。師と仰ぐ人に、自分に対して奴隷の仕事をさせるわけにはいかないのが人情です。恐縮してしまい、拒むのが普通のリアクションでしょう。しかし、イエス様は、「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません」と答えられました(8)。この「洗う」という行為は、「罪を洗い清める」という象徴です。イエス様に罪を洗い清めていただかなければ、イエス様の与える「救い・永遠のいのち」とは無縁となることを示唆しています。

 

ちょっとお調子者のペテロは、「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。」とお願いしますが、イエス様は、「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。」とおっしゃいます。現代のように靴下や靴をはく習慣がなかった時代、裸足かサンダル履きでは、水浴しても足だけ汚れてしまいます。ですから、足は洗わなければなりません。このたとえは、水浴というバプテスマ(洗礼)を受けた後も、地面を歩いている間、つまりこの世で生活している間には、汚れて罪を犯すことになります。その罪という汚れを、イエス様に洗っていただかなくてはいけない、イエス様の御前に出て、罪を告白し、悔い改めなければいけないということを意味しています。足を自分で洗うのではなく、また自分では罪を洗えないのですが、どうしてもイエス様に洗っていただかなくてはいけない、自分の上着を脱ぎ、自分のいのちを犠牲にしてくださったイエス様に、「洗って下さい」と足を差し出す、私たちの汚い足を、罪を、心の闇を、イエス様にお見せし、イエス様に洗っていただくのをお任せしなければならないのです。私たちはイエス様を私たちの救い主、罪の贖い主であることを信じ、その信仰にたっていますが、日々の生活において、どうしても罪を犯してしまう弱い者でもあります。罪は自動的に拭われるものではありません。私たちが汚い足をイエス様に差し出すように、罪を犯すごとに、イエス様の御前にでて、罪を告白し、悔い改め、赦しを乞うのであります。

イエス様は、この足を洗う行為をとおして、次のようにおっしゃいます。「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」(13)また次のようにもおっしゃいます。「わたしの遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。」(20)「わたしの遣わす者」とは弟子のことであります。弟子をお互いに受け入れる者は、イエス様を受け入れる者であり、神様を受け入れる者であります。ですから、クリスチャンは、イエス様が私たちになさったように、上着を脱ぎ、足を洗うように、お互いに仕え合う者でなければなりません。上着を脱ぎ、自分を第一とせず、足の汚れを拭い、共に主にあって受け入れ、励まし、助け合いながら生活すべきであることをイエス様は望んでおられるのです。

 

そして、イエス様はわたしたちに新しい戒めを下さいました。34節のところです。「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」 「互いに愛し合いなさい」とは、今まででも、神様から告げられている戒めの一つです。イエス様ご自身もこのことをおっしゃっておられます。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」(マタイ22:39) もちろん第一の戒めは「心を尽くし、思いを尽くし、努力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」(マタイ22:37)です。では、この旧約聖書から綿々と説かれています、第二の戒め「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」と、今回のイエス様の「新しい戒め」とどこがどう違うのでしょうか。何が新しいのでしょうか。それは言葉では「わたしがあなたがたを愛したように」と付け加えられたところでありす。これは先ほど触れました13節の「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」と言われるように、「イエス・キリストにあってお互いに仕え合う」ことでもあるのです。

 

そして、この「わたしがあなたがたを愛したように」という言葉に隠された、もう一つの新しさに私たちは気がつかなければいけないと思うのであります、いえ、もう皆さまはすでにお気づきだと思います。それは、イエス様がご自分を低くし、へりくだって、またご自身を犠牲にして、弟子たちの足を洗い、仕え合うことの模範をお見せくださったように、また、「わたしの遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。」のお言葉でも分かりますように、私たちや私たちの隣人は、イエス様から遣わされた者として、お互いを受け入れ、愛し合う者であるはずです。この「イエス様から遣わされた者として」という感覚は、戒め「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」の中には含まれていませんでした。ですから、イエス様はあえて、「新しい」と付け加えて、最後の晩餐の時に、「わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」とおっしゃったのです。また「わたしがあなたがたを愛したように」と日本語では過去形のようになっていますが、英語では「わたしがあなたがたを愛してきているように」とちょっと分かりづらいかもしれませんが、現在完了形、つまり「今も今までも、愛している」というメッセージが伝わってきます。主は今も生きて私たちに働きかけてくださっておられ、そのように互いに愛し合いなさいと励ましておられるのです。私たちは、イエス様の上着を脱ぐ愛、無償の愛、自己犠牲の愛、他の人の足を洗う愛、へりくだる愛、仕える愛、人をイエス様が遣わされたとみる愛、敬う愛、それらの愛を継承するようにと導かれています。イエス様は、私たちに、「互いに愛し合いなさい」とこれからの私たちに期待しておられるのです。

 

今から3分間、黙想をいたします。主の臨在を感じ、今朝、主が皆さまそれぞれにお与え下さったメッセージを、いま一度ふりかえらせていただき、心にとどめさせていただきましょう。主が今までになさって下さった「ご愛」を思い起こし、感謝と賛美をささげつつ、あなたの「これから」の「愛」について示していただけるよう、静まりの時を持ち、心を主に開放させていただきましょう。

 

(3分間黙想)

 

お祈りをいたします。愛する天のお父さま、今朝は、イエス様が示してくださいました「愛の模範」を深く覚える朝であり、心から感謝いたします。私たちは、「行いを伴わない信仰はむなしい」ことを知る者でございます。勿論、行動があるから愛があるのではなく、愛があるから行動があるのでありますが、どうか、今朝お導きくださいました、私たちそれぞれに対する「愛の思い」と「愛の行い」を私たちが心に留め、日々の生活において、主にあって、それを実行する勇気と平安と喜びが与えられますように。今朝のメッセージを感謝いたします。

主イエス・キリスト様の御名により、イエス様のご愛を覚えつつ、皆さまのお祈りと合わせまして、この祈りを御前におささげいたします。アーメン。

 

賛美: 新聖歌355「主と共に歩む」

賛美: 今月の歌・新聖歌257「キリストは生きておられる」

今月のワーシップソング「He is Lord」

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:エペソ3:14-21、2コリント13:13

アーメン四唱:新聖歌59.7

 

He is Lord

 

He is Lord, He is Lord has risen: あがる(よみがえる)
He has risen from the dead the dead: 死者
And He is Lord Lord: 主、君主
Every knee shall bow knee: ひざ bow: 曲げる
Every tongue confess tongue: 舌 confess: 告白する
That Jesus Christ is Lord

You are Lord, You are Lord You have risen from the dead
And You are Lord Every knee shall bow
Every tongue confess That Jesus Christ is Lord