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メッセージ主題:『主の晩餐』

ぶどうの木キリスト教会

通年主日親子礼拝主題:『イエス・キリストの生涯』

2018年4月22日

礼拝前祈祷:9:30 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 新聖歌263「罪咎を赦され、神の子とせられ」

賛美: 今月のワーシップソング 「He is Lord」

使徒信条: 新聖歌p.826

交読: 交読文19:詩篇第51篇:新聖歌p.893-4

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌105「栄えの冠を」

 

聖書拝読:マタイの福音書26章26節~29節(新改訳聖書)(輪読)

中心聖句:

「また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取って食べなさい。これはわたしのからだです。』また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。『みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。』」(26-28)

 

メッセージ主題:『主の晩餐』

 

おはようございます、そしてお帰りなさい。

 

先週は、『愛の模範』と題しまして、最後の晩餐のところで、イエス様が弟子たちの足を洗われ、互いに愛し合うことの模範をしめされたところから、イエス様の愛の本質について学ばせていただきました。今朝は、『主の晩餐』と題しまして、最後の晩餐のところで、イエス様が弟子たちにこの食事を記念とし、イエス様の血潮の贖いとイエス様を頭とする集会(エクレシア)のことを覚えておくようにされたこと、今では聖餐式として各教会で行われています、そのもととなりましたイエス様のお言葉から、イエス様が私たちに期待しておられることを学ばせていただきたく思います。

 

まず、お祈りいたします。(祈り)

 

この主の最後の晩餐では、イエス様は食事の途中で、おもむろにパンを取られ、神様に賛美をささげ、感謝し、神様からの祝福を求め、ある意味、聖別して、そのパンを裂き、弟子たちに与えられました。ひとつのパンを裂いて、弟子たちに手渡されました。この神様に祝福を求められた時点で、このパンは特別な意味を持ちました。ヨハネが記録しています、イエス様のお言葉、「わたしは命のパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(6:35)「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのためのわたしの肉です。」(6:51)このように、イエス様はご自身が「いのちのパン」であることを明言し、イエス様を信じ従う者は永遠の命を得ることができるとおっしゃるのです。そして、その晩餐では、イエス様は、「取って食べなさい。これはわたしのからだです」とおっしゃいます。では、どのようにイエス様のからだを「食べる」のでしょうか。もちろん、イエス様を食べるわけではありません。ヨハネは同じ6章で、次のようにイエス様の言葉を記しています。「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益にももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」(6:63)つまり、イエス様のお言葉、教えが、永遠のいのちをもたらし、またいのちそのものだとおっしゃるのです。イエス様のお言葉や教えに聞き従うことこそが、「永遠に生きる」ことなのであります。そして、「いのちを与えるのは御霊」であるということですから、イエス・キリスト様を信じた時点で、私たちの心に下される聖霊、私たちの心に内住される聖霊が私たちを永遠のいのちに導いてくださるのです。

 

主によって祝福された、その晩餐時のパンは、イエス様のからだであり、イエス様の教えであり、永遠のいのちへと導く御霊でもあるのです。そのパンを食べて、消化し自分のものとする、キリストを内に宿す、別の表現をすれば、イエス様に接ぎ木され、イエス様の霊の実をみのらせることに通じるのであります。

 

そして、イエス様は、ただ一つのパンを祝福され、裂いて弟子たちに渡されました。これも大きな意味を持ちます。それは、パウロの説く、「教会・集会(エクレシア)はキリストのからだであり、キリストは教会・集会のかしらである」ことで明らかにされています。エペソ書からパウロの言葉を引用してみましょう。「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです」(1:23)「キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられる」(5:23)つまり、この晩餐での祝福されたパンは、教会・集会(エクレシア)を意味してもいるのです。裂かれたそのパンを食したということは、弟子たちは、キリストをかしらとし教会・集会を形成することになると示唆されておられるのです。そして、だれが上でも下でもなく、ただただキリストをかしらとする集まりであり交わりの場や時であるべきなのです。

つまり、一人一人が、イエス・キリスト様のからだである御言葉と教えを理解し従い、また同時に、キリストをかしらとするキリストのからだである教会を形成することのイエス様の意志が、この主の晩餐のパンに込められているのであります。

 

では、パンの次におっしゃられたぶどう酒の杯はどうでしょうか。イエス様は、「これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです」とおっしゃいます。これは、イエス様の十字架上で流される血によります、私たちの罪の全き赦しを意味されています。「イエス様の契約」とは、パウロの言葉を借りれば「御霊に仕える者となる」ことです。第二コリント書で、「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字(律法)に仕える者ではなく、御霊(キリスト)に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」(3:6)と述べるように、古い契約である律法によっては救いが成就できませんでしたが、新しい契約であるイエス・キリスト様によって、律法を成就し、救いを全うすることができるようになったのであります。この晩餐でのぶどう酒の杯は、そのことを覚えるためのものです。

 

実にイエス様はそのことを前もってカペナウムで教えられておられました。ヨハネは次のように記録しています。少し長いですが、引用させてください。ヨハネ書6:53-58です。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。これは、天から下って来たパンです。あなたがたの先祖が食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」

 

このイエス様のお言葉で明らかなように、イエス様の肉(からだ)を食べ、血を飲むことは、一つのセットであり、切り離して考えるべきものではありません。このセットにして永遠のいのちをもつことになるのです。しかし、両者の重点の違いは明らかです。イエス様のからだは、御言葉であり教えであり、また教会・集会(エクレシア)でありますが、イエス様の血は、罪の全き赦しの恵みであり、悔い改めの導きでもあります。どちらも永遠のいのちに導くものであり、日々のイエス様の肉を食べ、血を飲むことが、つまり、例えば、聖書を読み、祈り、主と交わり、救いの確信をもって感謝し、悔い改めによる新生に御名をほめたたえ、主をかしらとする教会において愛の交わりをすることが、望まれているのであります。

 

また、興味深いことですが、このイエス様の晩餐でのお言葉は、弟子たち(信徒たち)との愛餐の時に発せられたということです。イエス様を信じる者たちが、共に食事をするとき、このイエス様のお言葉を思い出すことができるという恵みにあずかれるということです。なにも教会の聖餐式のように儀礼的になる必要はなく(あれはあれで意義のあることではありますが)、食事の時ごとに、その食事に対する感謝だけではなく、主のからだを食べ、主の血を飲むこと、救われ永遠のいのちに恵まれることを覚え感謝できる機会が与えられているのであります。三度三度の食事の時に、イエス様は、この救いの御業と、そしてクリスチャン同士の愛の交わりを覚えなさいと暗示されておられるのです。

 

今から3分間、黙想をいたします。主の臨在を感じ、今朝、主に導いていただきました、主の晩餐の意義と、食事ごとに対する主への救いと罪の贖いの感謝、クリスチャン同士の愛の交わりを覚えることができますように、主の愛に想いを馳せさせていただきましょう。それでは、静まりの時を持ち、心を主に開放させていただきましょう。

 

(3分間黙想)

 

お祈りをいたします。愛する天のお父さま、今朝は、イエス様が弟子たちと共に愛餐をする中で、主のからだを食べ、主の血を飲むことをお教えくださり感謝いたします。まさに、「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です」(1コリント1:18)とは、このことであります。どうか、私たちを、常に主を喜ぶものとお導きください。

主イエス・キリスト様の御名により、イエス様の十字架の救いとご愛を覚えつつ、皆さまのお祈りと合わせまして、この祈りを御前におささげいたします。アーメン。

 

賛美: 新聖歌211「天なる喜び」

賛美: 今月の歌・新聖歌257「キリストは生きておられる」

今月のワーシップソング「He is Lord」

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:エペソ3:14-21、2コリント13:13

アーメン四唱:新聖歌59.7



He is Lord

 

He is Lord, He is Lord
He has risen from the dead
And He is Lord
Every knee shall bow
Every tongue confess
That Jesus Christ is Lord

You are Lord, You are Lord
You have risen from the dead
And You are Lord
Every knee shall bow
Every tongue confess
That Jesus Christ is Lord



has risen: あがる(よみがえる)

the dead: 死者

Lord: 主、君主

knee: ひざ

bow: 曲げる

tongue: 舌

confess: 告白する