メッセージ主題:『逃れの道』

ぶどうの木キリスト教会

通年主日親子礼拝主題:『イエス・キリストの生涯』

2018年5月6日

礼拝前祈祷:9:30 「主をほめる、主を讃える、静まりの」祈り

礼拝:10:00

賛美: 新聖歌171「今日まで守られ」

賛美: 今月のワーシップソング 「You Are My Hiding Place」

使徒信条: 新聖歌p.826

交読: 交読文21:詩篇第62篇:新聖歌p.895-6

祈り: 「神様からのメッセージを待ち望む」祈り

賛美: 新聖歌504「妹背を契る」

 

聖書拝読:ヨハネの福音書18章2節~11節(新改訳聖書)(輪読)

中心聖句:

「イエスは答えられた。『それはわたしだと、あなたがたに言ったでしょう。もしわたしを捜しているのなら、この人たちはこのままで去らせなさい。』それは、『あなたがわたしに下さった者のうち、ただのひとりをも失いませんでした。』とイエスが言われたことばが実現するためであった。」(8-9)

 

メッセージ主題:『逃れの道』

 

おはようございます、そしてお帰りなさい。

 

先週は、『解放した祈り』と題しまして、イエス様の十字架での死を目の前にしたゲッセマネの祈りを通して、個人の思いを解放した、主に明け渡し降伏した祈りを学ばせていただきました。今朝は、『逃れの道』と題しまして、イエス様が役人たちに捕らえらえた時、弟子たちが共に捕らえられないようにされたところから、主は常に私たちを守られる、永遠のいのちを得るための逃れの道を開いてくださることを学ばせていただきたいと思います。

 

まず、お祈りいたします。(祈り)

 

イエス様のゲッセマネでの祈りの後、イスカリオテのユダの先導によって、兵士と役人たちがイエス様を取り押さえにやってきました。イエス様の十字架への道が秒読み態勢となったのであります。この場面の記録は四福音書すべてに記述されています。ただし、ユダがイエス様に近づいてきて口づけしようとし、イエス様がユダに、「ユダ。口づけで、人の子を裏切ろうとするのか」(ルカ22:48)とおっしゃられた、そのユダの口づけの様子は、マタイ・マルコ・ルカの福音書に記されています。今日私たちの読みましたヨハネの福音書には、ユダの口づけの様子は出て来ませんが、そのようなやり取りもあったことを覚えておきましょう。頬に口づけしたり、そのように挨拶したりする行為は、親しい人々の間でなされる行為であり、信頼を表わす行為でもあります。しかし、ユダはその行為を裏切りの行為、役人や兵士たちにイエス様がどの人かを示す合図としたのです。私たちは、このことをユダの個人的な行為とみるのではなく、悪魔にそそのかされた人の行為であり、しいては私たち自身の行為であると覚えないといけません。悪魔は、巧妙に人をそそのかし、信頼させ、そして人をイエス様から切り離し、永遠のいのちにあずかれないようにし、また人をそのように仕向けるのであります。「イエス様=永遠のいのち」であることを、いともたやすく、私たちから忘れさせることのできる誘惑と恐怖の力をもつのであります。事実、弟子たちはイエス様が兵士たちに捕らえられた時、恐怖のあまり、蜘蛛の子を散らすように逃げ隠れしてしまいます(マタイ26:56)。また、ペテロのように、剣をもって兵士たちに立ち向かおうとする、恐怖による自暴自棄的な、やけくそ行為にでるものもいますが、相手は武装兵士であります、本気で立ち向かって勝てる相手ではありません、運よく相手に隙があって耳を切り落とせたとしても。ヨハネ書によれば、イエス様は、その時、「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯をどうして飲まずにいられよう。」(11)と、天の父なる神様のみ心通り、無抵抗で捕らえられ、十字架での全人類の罪の贖いを成就させることを述べていますが、マタイ書では、「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。」とイエス様のお言葉が、補足されています。つまり、武力で危険を回避すること、問題を解決することはできないということを示唆されておられます。

 

しかし、どうでしょう。ペテロはイエス様から許され、剣を持たされていました。その剣は弟子たちの間で二振りしかありませんでした。ルカ書によれば、イエス様は、これからの旅(イエス様が捕まってからのしばらくの逃走の旅)では、「今は、財布のある者は財布を持ち、同じく袋を持ち、剣のない者は着物を売って剣を買いなさい。」(22:36)とおっしゃり、剣が二振りあることを報告されると「それで十分」(38)とおっしゃいました。ある注釈書では、この剣は、「イエス様の十字架後、世間の敵意への反抗という比喩的表現である」としています。それもひとつでしょう。その上で、私はイエス様が「二振りの剣で十分」とおっしゃられたことが気になります。戦うための剣では、二振りでは足りませんが、これが逃走用の剣、だれかが剣で敵を威嚇しつつ、残りの者を逃がすようにとのお考えで、剣を持つことをお許しになられたとしたら、どうでしょう。私は、どうも「逃れのための剣」ではなかったかと想像してしまうのであります。

 

事実、今朝の中心聖句にもありますように、「もしわたしを捜しているのなら、この人たちはこのままで去らせなさい」とイエス様は、弟子たちが捕らえられないように配慮されておられます。その言葉が恐らく耳に入らずに、ペテロは剣を抜き、相手の耳を切り落としてしまいます。そのことがあり、イエス様は「剣を収めなさい」とおっしゃり、その耳の傷をイエス様は即座にお癒しになります(ルカ22:51)。

 

このことから、イエス様がおっしゃった剣の用意は、武力による戦いではなく、迫害による精神的な戦いの準備を意味し、またその迫害からの「逃れ」を意味しているのではないでしょうか。また、イエス様は「わたしを捕まえにきたのだから、わたしを捕まえなさい。他も者には手をかけるな。」とおっしゃられています。これはまるで、映画やTVドラマでも、よく見かける場面であります。主人公が「俺だけを相手にして、他の者には手をかけるな」とちょっとかっこいい場面であります。イエス様がどれだけ、この場面でかっこよく啖呵を切ったのかはわかりませんが、いえ、啖呵は切らなかったでしょう。イエス様は無抵抗でとらえられることをお選びなさったのですから。落ち着いて「この人たちはこのままで去らせなさい。」とおっしゃられたに違いありません。イエス様は、ゲッセマネでの苦しみ悲しみの祈りから、一変し、神様にすべてをゆだねられた平安の内に身を投じられておられました。もちろん、肉体的な苦痛をこれから味わうことになるのですが、霊的には常に平安のうちにありました。そのイエス様を通して、弟子たちは一緒に捕らえられるという危機から逃れることができたのです。

 

そう、イエス様ご自身が、当時の弟子たちにとっても、今の私たちにとっても、「逃れの道」なのであります。旧約聖書、特に、詩篇によく表わされています「避け所」が、私たちにとってのイエス様なのです。皆さまのよくご存じの詩篇の聖句をあげてみます。たくさんありますので、三つほど。詩篇46:1「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。」、62:7-8「私の救いと、私の栄光は、神にかかっている。私の力の岩と避け所は、神のうちにある。民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。」、94:22「しかし主は、わがとりで(高きやぐら)となり、わが神は、わが裂け所の岩となられました。」

 

旧約聖書が現わしていますように、イエス様は私たちの「避け所」であります。そして、イエス様ご自身もそのことを、終末のことに関して述べておられる時に、次のようにおっしゃいます。「この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。、、、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。(ルカ21:33、36)」 全てのことから逃れられるように導かれるのはイエス様ご自身であります。

 

この世の終りが先か、私たちのこの世での肉体的命の終りが先かは分かりませんが、私たちの艱難の避け所・逃れの道はイエス様しかございません。いつも油断せず、感謝をもって祈ってまいりましょう。今朝は、イエス様が「あなたがわたしに下さった者のうち、ただのひとりをも失いませんでした。」とおっしゃられた言葉がすでに成就していることを確信し、イエス様が私たちの避け所であり、逃れの道であることを覚えさせていただき感謝したいと思います。

 

今から3分間、黙想をいたします。主の臨在を感じ、今朝、主がお語りくださいました「イエス様こそが私の逃れの道・避け所である」を覚え、感謝の祈りをささげましょう。それでは、静まりの時をとおし、心を主とひとつにさせていただきましょう。

 

(3分間黙想)

 

お祈りをいたします。愛する天のお父さま、今朝は、「逃れの道」と題しまして、イエス様に依り頼むことでしか、私たちは患難や試練から逃れることが出来ないことを、今一度思い返すことができました。ありがとうございます。主はおっしゃいます。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎがきます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。(マタイ11:28-30)」 どうか、常に主に依り頼む信仰生活を歩むことができますよう、お導きください。主イエス・キリスト様の御名により、イエス様の十字架の救いとご愛を感謝しつつ、皆さまのお祈りと合わせまして、この祈りを御前におささげいたします。アーメン。

 

賛美: 新聖歌166「威光・尊厳・栄誉」

賛美: 今月の歌・新聖歌104「十字架の上に」

今月のワーシップソング「You Are My Hiding Place」

「主の祈り」(新聖歌p826)

頌栄:新聖歌63「父御子御霊の」

祝祷:エペソ3:14-21、2コリント13:13

アーメン四唱:新聖歌59.7



You Are My Hiding Place

(Words & Music by Michael Ledner)

 

You are my hiding place

You always fill my heart

With songs of deliverance

Whenever I am afraid

I will trust in You

I will trust in You

Let the weak say I am strong

In the strength of my Lord

I will trust in You.

 

Hiding place: 避け所

Deliverance: 解放、救出

Trust in: 信頼する

The weak: 弱き者

Strength: 力